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“石垣島事件”3人はどこで処刑された?~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#13

石垣島事件と呼ばれる米兵捕虜殺害事件が起きたのは、1945年4月15日。沖縄戦が始まり、石垣島も連合軍からの攻撃にさらされていた。日本軍から撃墜されたグラマン機に搭乗していた3人の米兵はパラシュートで降下後、石垣島警備隊に捕らえられた。その夜、3人が処刑された現場はどこなのか。

「石垣島事件」現場で何が起きたのか

殺害された3人の米兵

 

1945年4月15日、撃墜されたグラマン機に搭乗していたのは、パイロットのバーノン・L・ティボ中尉(27歳)、砲撃担当のロバート・タグル・Jr兵曹(20歳)、通信担当のウォーレン・H・ロイド兵曹(23歳)の3人だった。3人はパラシュートで大浜海岸に降下したあと捕らえられ、石垣島警備隊の本部へ連行された。訊問を受けたあと、夜になって近くの荒れ地に連れてこられた。まず、ティボ中尉を幕田稔大尉が斬首、次にタグル兵曹を田口泰正少尉が斬首した。そして残るロイド兵曹は杭に縛られて、数十人の兵士から銃剣で突かれた。大量の日本兵がBC級戦犯として被告となったのは、このロイド兵曹に対する刺突が理由だった。処刑の現場に3人が到着した時には、すでに遺体を埋めるための穴が掘ってあった。戦後、戦犯に問われることを恐れて遺体は掘り起こされて焼かれ、海に流されている。

現場周辺の景色は変わっていた

同行してくださったジャーナリストの森口豁さん

 

石垣島のロケには、ジャーナリストの森口豁さんにも同行していただいた。森口さんはおよそ30年前、戦犯に問われた1人と現場を訪れている。19歳でロイド兵曹の刺突に加わり、一審では死刑を宣告され、その後5年に減刑されて故郷の石垣島へ帰ってきた人だ。30年前でも、戦後の土地改良事業で景色が変わり場所の特定は容易ではなかった様子が、森口さんの著書「最後の学徒兵」に綴られている。実際、森口さんの記憶を頼りに現場付近を歩いてみたが、分からない。標高217メートルのバンナ岳を遠くに望みながら、その距離感から推測するとこの辺であることは間違いないのだが、ピンポイントでどこだと特定することは難しかった。目印になるはずの松の大木もとっくの昔に切られたようで、CGセンターで作ってきた地図も役に立たない。

この時には、残念ながら現場の特定には至らなかった。しかし1ヶ月後、森口さんから大きなヒントがもたらされるー。


(10月27日公開のエピソード14に続く)
*本エピソードは第13話です。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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