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“石垣島事件”3人はどこで処刑された?~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】

ニュースBC級戦犯の遺書

大村由紀子

石垣島事件と呼ばれる米兵捕虜殺害事件が起きたのは、1945年4月15日。沖縄戦が始まり、石垣島も連合軍からの攻撃にさらされていた。日本軍から撃墜されたグラマン機に搭乗していた3人の米兵はパラシュートで降下後、石垣島警備隊に捕らえられた。その夜、3人が処刑された現場はどこなのか。

事件当時 石垣島は連日攻撃にさらされていた

石垣島を攻撃する米軍機のガンカメラ映像より(米国立公文書館所蔵 豊の国宇佐市塾提供)

 

大分県の宇佐市に、「豊の国宇佐市塾」という郷土の歴史研究をしている団体がある。宇佐には海軍航空隊が置かれていた関係から塾生の織田祐輔さんは、アメリカの国立公文書館が所蔵している、米軍機に取り付けられたガンカメラが撮影した攻撃映像を収集している。度々、RKBの番組にもご協力いただいているが、石垣島への攻撃について問い合わせると、1945年4月3日に石垣島の空港を狙って爆撃する映像が送られてきた。空港に停まっている航空機に向けてミサイルが撃たれ、機銃掃射を繰り返しながら飛行している。日本の国立公文書館に所蔵されていた石垣島事件の調書には、連日の連合軍からの攻撃で石垣島警備隊でも死者が出たことが書かれていた。敵軍からの攻撃で戦友が命を失うのを目の当たりにする状況の中で、捕虜を殺害する事件が起きたことが分かる。

 

米軍の文書に記された×印 道路脇に大きな木が描かれている

 

公文書館の資料の中には、米軍が攻撃対象として把握していた石垣島警備隊の弾薬庫など建物の配置図や、横浜裁判に米軍側から提出されたであろう、殺害現場を「×」で記した地図もあった。いずれも手書きのものだ。

地図に描かれた目印の松の木

手書きされた数枚の地図には、どれも道の脇に目印となる大きな木の絵が書かれていた。石垣島警備隊が置かれた周辺の土地には松の木が多く生えている。大きな一本松が立っていたのだろうか。1962年に米軍が撮影した航空写真を見ると、該当する場所に黒く丸い物体が写っていた。大きな木を上空から見ると、そう見えるのかもしれない。手書きの地図と航空写真を当社のCGセンターに持ち込んで、美術スタッフに「×」で示された現場がどこになるのかを検証してもらった。地図に描かれている松の木の脇にある道は、航空写真で見ると大きな道ではなく、けもの道のような細い道に見えるという。

 

手書きの地図と航空写真から現場を予測した

 

松の木が書かれた地図は複数あるが、いずれも手書きなので微妙に形がずれている。しかし、大きな道から何メートルと情報が書き込まれているものもあり、スタッフはだいたいこの辺ではないかと予測したものを作ってくれた。それを携えて石垣島の現場へと向かった。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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