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石垣島事件の現場はここだった~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#14

目印の松の木 場所を特定

 

赤土に広がるさとうきび畑を指さして、宇部さんは言った。

「ここら辺に松があった。こっちから3メートルくらい先。大きな松の木が何十年もあったけど、土地改良のためにみんなつぶされていないさ。僕はそこで親父からここで処刑されたんだよ、3名したって聞いた」

宇部さんのお父さんは石垣島警備隊とは別の部隊の兵士で、米兵殺害の現場を目撃していた。終戦時6歳だった宇部さんはお父さんから話を聞いたという。宇部さんのおかげで目印の松の木があった場所は特定できた。松の位置から推測すると、現場はさとうきびの葉がゆれるのどかな場所だった。それはCGセンターでスタッフが推測した場所ともほぼ一致した。

現場写真が裁判資料から見つかった

現場写真だと思われる資料(国立公文書館所蔵)

 

後日、日本の公文書館で入手した石垣島事件関係の裁判資料を見ていると、コピーでつぶれた写真が載った調書があった。写真の説明には「処刑した場所」と書かれているので、現場を撮影した写真のようなのだが、とにかく山の稜線がかろうじてわかるくらいで、何が写っているかまったくわからない。

 

現場写真 (米国立公文書館所蔵 髙澤弘明氏提供)

 

この資料を、戦犯裁判の写真を研究している日本大学の高澤弘明さんに「たぶん、現場写真だと思うんですけど、わからないんですよね」とお見せした。それを気にかけていてくださった高澤さんは、コロナ禍で1年以上閉鎖されていたアメリカの国立公文書館がやっと開館した後の2023年春、調査に行かれた際に写真を入手してこられた。

「見せていただいた資料、たぶんこれだと思います」

コピーされる前の元資料は、やはり現場写真だった。バンナ岳の稜線から推測すると、私たちが特定した現場は、まさにそこだった―。


(11月3日公開のエピソード15に続く)
*本エピソードは第14話です。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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