法廷にいた青年を特定!拡大写真の“傷”が決め手に「どこかの誰か」ではなく人物が浮かび上がる~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#18
「石垣島事件」に関わり、わずか19歳でBC級戦犯として死刑を宣告された男性。横浜裁判の法廷写真に残る姿が本人かどうか確認しようとご子息に見せたが、若き日の父の顔は晩年の印象とはかけ離れていて、確証は得られなかった。そんな中、拡大した写真の顔の中にあるものを見つけたー。
目次
「どこかの誰か」ではなく、人物が浮かび上がる
グループ写真に写る45人の被告の名前は、一応分かった。顔と年齢を突き合わせても矛盾はない。あとは一人ひとり確認を取る作業だ。これは相当難しい。すでに確認できる人たちがいない可能性も高い。小浜さん一人の確認を取る作業もかなり難航した。しかし、確認はこれからというものの、とりあえずキャプションとも一致して、誰がどんな顔をしているということがわかっただけでも、ここから供述調書などを読む作業がかなり楽になった。顔も知らない誰かの調書というよりは、「あの人」の調書として読んでいくと、内容が頭に入っていくのだ。その人の出身地や年齢、家族構成なども情報として入ってくると、さらに親近感が増す。ただのアルファベットで記されていた「どこかの誰か」が、どこ出身の○○さんで、しかも同じ九州出身だったり、3人の子供がいる父親だったり、個人的なプロフィールが入ると、スガモプリズンの入所日の数字ひとつを見ても、残された家族の心情を想像したりするのだ。人にはそれぞれ名前と顔がある。これは、ニュースを報じる際に、実名か匿名かで、受け取る人の心象が違うということにも通じると思う。
(12月1日公開のエピソード19に続く)
*本エピソードは第18話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
もっと見る1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
この記事はいかがでしたか?
リアクションで支援しよう
この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。