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取り調べでは「虚偽の供述」強要も~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#20

スガモプリズンに収容されていた人たちが、1952年5月12日に出版した「戦犯裁判の実相」という書物がある。戦犯に問われた人たちが、自らが関わった事件や裁判について、記録を残そうと製作したものだ。1981年に復刻発行されている。この書物から石垣島事件の被告たちの取り調べ状況が明らかになった―。

実弾入りの拳銃を突きつけられて

戦犯が収容されたスガモプリズン(東京)

 

ほかにも石垣島事件の関係者で、取り調べの際に拷問を受けたと書いている人がいた。判決時23歳位の上等水兵だ。愛媛県出身のこの人は、山口県庁で同じくダイヤー調査官と山口通訳に取り調べを受けているが、「彼等は虚偽の供述を強要し、首を絞め、頬を殴打すること数回に及ぶ。取り調べ中に拳銃の実弾を入れたり、突きつけたりして強迫した。調べ中に思考していた時は日本の警察官に命じて、一般囚人が居る山口刑務所の独房に監禁された」という。

上等水兵は、ダイヤー調査官から「君は上官の命令によって行動したゆえに罪はない。これにサインすればすぐに釈放する」と言われたので、虚偽の口述書にサインをした。この事を裁判中述べたが、ダイヤー調査官のうその証言により取り消された、と書いている。

敵愾心…自分も突いたかもしれない

前出の二等兵曹は仮出所後、10年以上が経過した1967年に、法務省の聞き取り調査に応じている。その中で

「私が最後に刺突参加、殴打について肯定したのは、長い日数にわたる取り調べにより根気を失い、もうどうにでもなれと半分、捨て鉢になってのことであったが、私の部下の衛兵の中には敵愾心で『こんチクショウ』という気持ちで殴打した者も居たし、私自身も、もし衛兵伍長としてではなく現場に行っていたら、突いたかも知れないのだという考えも交じっていた。それにしても、ダイヤー調査官さえ現れなかったら、最後まで否認したであろうと思う。自分で自分の首を絞めるような結果になったことは、今から考えると残念でならない」
と語っている。

 

石垣島事件で死刑になった藤中松雄



一方で、「刺突した」とあっさり認めた者は、拷問を受けることなく取り調べを終えたということも記録に残っている。この連載の主人公、福岡県出身の藤中松雄はどうだったのか。次回から検証する―。

(12月15日公開のエピソード21に続く)


*本エピソードは第20話です。

ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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