プロパガンダか異文化との「架け橋」か モスクワ発の日本語放送
社会主義のソビエト連邦でかつて、国の検閲下で放送された「日本語のラジオ局」があった。モストとはロシア語で「架け橋」という意味だ。この隠れた戦後史を掘り起こしたノンフィクションの単行本は昨年末、開高健ノンフィクション賞を受賞した。RKBラジオ『田畑竜介Grooooow Up』で、RKB毎日放送の神戸金史解説委員長が、埋もれる歴史を掘り起こした意味を語った。
「モスクワ放送」とは
『MOCT(モスト)「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』(集英社、税込1980円)という書籍を持ってきました。著者は毎日新聞の記者、青島顕さん。読んでいて「もし自分がこういう場面に出会った時に、どうしていただろう」と考えさせられました。若い頃に、モスクワ放送のラジオの電波に接した方々の物語です。
モスクワ放送は、「ソ連国家ラジオ・テレビ委員会」が社会主義陣営のリーダーとしての立場を伝えるために、海外向けに電波を出したラジオ局です。6階に「日本課」があって、日本向けに日本語で放送していました。
対外放送は1929年にドイツ語から始まっていて、日本語の放送は1942年から。ソ連崩壊後はロシア国営となり、2014年にインターネット放送に変わり、2017年に休止となりました。日本海を越えて届けられてきた人々の声は途絶えました。書籍はこの何十年かの間、モスクワ放送に携わった日本人たちを取材したノンフィクションです。
モスクワに渡った魅力的な青年たち
現場では、少なくない数の日本人が業務を担っていたのですが、彼らがやったことは一体何だったのか? 国家としてのプロパガンダ(政治的宣伝)の要素ははっきりとあります。ニュース原稿にはチェックが入っていました。
西野肇さんは、テレビ局でADのアルバイトをしていました。かつて北海道にある放送局の入社試験を受けたことがあったのを会社の中で知っている人がたまたまいて「モスクワ放送から募集が来ているけれども、北の方が好きなんだろう?」と声をかけられました。
「イギリスとかだったら誰でも行くんじゃないか。でもそうではない国だ」ということに関心を持って、本当に行ってしまうんです。ソ連に渡って放送に携わるようになって、ある音楽をかけてみたところ、騒ぎになりました。それがザ・ビートルズの『Back In The U.S.S.R.』です。
「ウクライナ娘は最高」「西側にはこんな子いないよね」という歌詞です。社会主義のソ連は、西側の文化の象徴であるロックは禁止だったんです。男女の関わり合いについても非常に厳しい建前を持っていたので、びっくりした日本課長が飛んできたそうです。
また、日向寺康雄さんは30年もの間、アナウンサーを続けました。青島記者はこうした人々の話をずっと聞いて書いています。
静かで理性的な筆致
毎日新聞の青島顕記者は、なぜモスクワ放送を取材しようとしたのでしょうか。
【青島顕さん】
1966年静岡市生まれ。91年に早稲田大学法学部を卒業、毎日新聞社に入社。西部本社整理部、佐賀、福岡、八王子、東京社会部、水戸、内部監査室委員、社会部編集委員、立川などでの勤務を経て、現在東京社会部記者。共著書に『徹底検証 安倍政治』『記者のための裁判記録閲覧ハンドブック』。本書が初の単著となる。開高健ノンフィクション賞の選考委員、歴史学者の加藤陽子・東大教授は「書き手の静かな理性の膂力に触れた読み手の心は、快い驚きに満たされずにはいられない」と評した。
1983年にサハリン沖のソ連領空で、大韓航空ボーイング747型旅客機がソ連軍の戦闘機にミサイルで撃ち落とされる事件が起きました。日本人を含む乗客と乗員269人全員が死亡。冷戦下で起きた悲劇的な事件でした。青島さんは当時高校生でした。
(プロローグより)
しばらくたったころ、夜、家に帰って何気なくラジオをつけてダイヤルを回すと、ニッポン放送の周波数(1242キロヘルツ)の近くから、日本語が聞こえてきた。
「……わが国の……南朝鮮の飛行機の飛行を妨害した問題で……」
モスクワ放送のニュースの時間のようだった。
(中略)
そういった国の見解を、日本人が放送しているらしいことが気になった。いったいどんな人が、どうして――。謎は胸にしまわれ、その後、それを解く鍵が近づいたことが何度かあったのに、自覚しないままに40年近くの時が過ぎた。
戦争、亡命、シベリア抑留
モスクワ放送はどうして始まったのか、青島記者は取材を深めていきます。最初のアナウンサーは、福岡県の添田町出身の緒方重臣さんでした。この方は当初、名前もわかりませんでした。また、女優の岡田嘉子さんも、ソビエトに向けて国境を渡り、モスクワ放送で話をしていました。
いろいろな方々の人生が、戦争を背景にして動きます。ソビエトに抑留されてしまった人たちがそのまま残ってモスクワ放送に携わったり、日本陸軍の余りの酷さに亡命してしまった元軍人だったり、いろんな方々がいます。
(プロローグより)
体制が違うその国に行けば、自分らしく生きられる。もしかしたら、日本をよりよく変えることができるかもしれない。かつて、そんな夢や希望を抱いた日本人がいたことを知った。実際にそこで生きていくことは容易なことではなかった。一度や二度でなく、「こんなはずではなかった」と思ったに違いない。それでも、心の奥には「志」があった。その人たちのこと、考えていたことを記録することには、きっと意味があるはずだと思うようになった。
自分の人生とは何だったのか
本の題名「MOCT」(モスト)とは、ロシア語で「架け橋」という意味です。
この本を読む中で考えたのは、たまたま出会った人の一言だったり、生まれ育った時代の背景だったり、その時に若い自分がどう反応したかによって、人生が変わる。この本に出てくる人たちは、ソビエトに渡りました。戦前には戦争が背景の場合もあれば、戦後には好奇心と冒険心にあふれていた青年が旅立っていった場合もあります。
放送は終わり、そしてウクライナで戦争が始まりました。自分たちのやってきたことは一体何だったんだろうか。登場人物は深く振り返っていきます。青島さんは「強権的と言われる国であっても、そこに生きる人たち一人一人の良心は生きている」(241ページ)と、描いています。
西野さんの話は続いた。
「事情があって国内にとどまっている人もいるはずだ。そういう人たちは表面上戦争を支持しているふりをしたり、沈黙したりしているかもしれない。でも、そのうち動きが出てくるかもしれない。それを期待している。期待したいよね」(244ページ)
西側の体制を脅威だと感じて対抗するあまりに頑なな姿勢を取り、日本で「悪の帝国」だの「おそロシア」だのと言われてきたソ連、そして今のロシア。そこに住む人たちは今の状況を本当はよいとは思っていないはずだ。そのときが来たら、行動する人は必ずいる。でも今やったら簡単に潰されてしまう。じっと時を待っているのだ。そんな人たちの存在を信じてほしい。待っていてほしい。日向寺さんはそんなことを言いたかったのだと私は受け止めている。(250ページ)
人が生きるということ――。
その過程で突然何か自分の中で何かが反応して、変化を起こし、そして行動に起こすということ。振り返ってみると、どこか切なくて。でもそれは多くの人生、人々の人生私達も含めてそうなんじゃないかなと思います。
あの時は一生懸命だった。でもその結果がどうだったかはまた別の問題だ、ということはあると思うんですね。『MOCT(モスト) 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』(集英社、税込1980円)は、そういった感慨を抱かせる本でした。
モスクワ放送日本語放送の歴史
1942年4月14日、日本語放送開始。初代アナウンサーは「ムヘンシャン」と名乗った緒方重臣さん。翻訳は野坂龍さんが担当した。当初の放送は1日30分の短波放送。日本での聴取は制限されていたとされる。
1946年 12月3日、ハバロフスクからの日本語放送が開始。
1947年 ハバロフスクから、シベリア抑留者の消息を一人ずつ紹介する「おたより放送」を開始。
1948年 ソ連に亡命していた岡田嘉子さんが、モスクワで入局。
1956年 日ソ国交回復。
1967年 レービンさんが日本課長に就任。2009年まで40年以上務める。
1972年 11月13日、岡田嘉子さんが夫である滝口さんの遺骨を抱いて、3年ぶりに一時帰国。
1973年 西野肇さん入局(~88年)。
1979年 ソ連がアフガニスタン侵攻。
1980年 モスクワ五輪。日本はボイコット。
1983年 9月1日、大韓航空機撃墜事件。
1987年 日向寺康雄さん入局。
1991年 川村かおりさんが日向寺さんの番組に出演。1月13日、リトアニアで「血の日曜日事件」。4月、ゴルバチョフ大統領初来日。8月19日、国家非常事態委員会がクーデターを起こす。山口英樹アナウンサーが同委員会の声明を放送。クーデターは鎮圧される。12月、ソ連崩壊。
1992年 日向寺アナウンサー、新年の放送で「ロシアをとことん伝えていきたい」と語る。2月10日、岡田嘉子さん死去(86歳)。
1993年 モスクワ放送が「ロシアの声」に改称。
2009年 日本課長のレービンさんが退局。
2014年 「ロシアの声」が「ラジオ・スプートニク」と改称。インターネット放送に。
2017年 5月、人間の声による放送が終了。
2022年 2月24日、ロシアがウクライナに侵攻。
この記事はいかがでしたか?
リアクションで支援しよう
この記事を書いたひと
神戸金史
報道局解説委員長
1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。