PageTopButton

松雄が法廷で証言したこと~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#25

石垣島事件でBC級戦犯に問われた藤中松雄は、横浜軍事法廷で裁かれることになった。最初の取り調べで「自発的に刺した」としていた松雄は、弁護士に「命令で刺した」と内容を翻す陳述書を提出している。そして1948年2月、松雄は被告人として法廷に立った。証言台で松雄が話したのはー。

迷惑をかけてはいけないと思い嘘を言った

法廷での藤中松雄(米国立公文書館所蔵)

<裁判日報>
(藤中)福岡では呼び出しされると、すぐに事件のことを聞かれ、はっきり思い出せなかったが、その後事件の事ばかり考えていたので、記憶は鮮明になってきた。検事側の口述書に「自発的に側にいた人の銃を取って突いた」と書いてあるのは、当時、榎本中尉に迷惑をかけてはいけないと思って嘘を言ったのである。石垣島では榎本中尉から良く面倒をみてもらい、心から信頼していた。

想像でもよいから書け

<裁判日報>
(藤中)又、炭床兵曹長が鼻から血が出るまで拳骨で鼻や口を殴ったと書いてあるのは、当時、山田通訳から想像でもよいから書けと言われ、炭床兵曹長が叩いたのだろうと想像して書いたのである。実際自分の見たのは炭床兵曹長が棒で飛行士の股を軽く叩き、北田兵曹長がその棒を取ったことと、叩いた人がたくさんいるということだけである。自分の検事側の口供書に北田兵曹長と炭床兵曹長が残虐に殴ったと書いてあるのは、事件当時は知らなかったが、福岡でそんな風に思い、ダイヤー調査官も山田通訳もそう書けとは言わなかった。又、その口述書に現場で見た人として名前を挙げてあるのは、名簿を見せられ、その中から現場にきたと記憶する人の名を書けと言われ書いたものだ。

この法廷で述べたことが正しいのである

<裁判日報>
(藤中)福岡での調査は「法務部」で行われ、1階の大部屋には7.8名の者が呼び出されて来ていた。2階で山田通訳から質問を口授され、階下に降りてこれに対する答えを書いた。

スガモプリズン

 

福岡の取り調べで書かされた陳述書は、「思い出したまま、想像を加えて書いたので、その時もその内容は正しいとも思わなかった」と松雄は法廷で証言した。ここで検事は証拠として、松雄が1947年7月14日巣鴨で作成した陳述書を提出した。この陳述書について松雄は―、

(藤中)「陳述書を書く時、強制はされなかったが、山田通訳から示された雛形の通りに書いたまでだ。今は、それは間違っていると訂正する。即ち、『福岡で書いた陳述書は正しい』と言っている点は間違っている。この法廷で述べたことが正しいのである。」

法廷に立って、検事側が証拠として提出した自分の陳述書は「間違っている」と述べた松雄。「榎本中尉に迷惑をかけてはいけないと思い、嘘を言った」と法廷で真実を訴えた松雄だったが、それが量刑に反映されることはなかったー。
(エピソード26に続く)

*本エピソードは第25話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

もっと見る

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

この記事はいかがでしたか?
リアクションで支援しよう

この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

もっと見る