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大佐から口止め「真実を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#30

太平洋戦争末期、1945年4月に石垣島で3人の米軍機搭乗員が日本兵によって殺害された石垣島事件。その日捕らえられた搭乗員の殺害は誰が決めたのか。石垣島警備隊の本部にいた海軍少尉が処刑実施に至る詳細な経緯をまとめていた。その文書に書かれていたのはー。

命令通りに準備すれば良い

副長井上大尉:司令の命令だ、命令通りに準備すれば良い。処刑の実施は他の者が行う。

前島少尉:いかなる準備をすれば良いですか。

司令井上大佐:照空隊付近の荒地が良い。あの付近に穴を掘れ。

井上大佐からの指示を受け、前島少尉は下士官に用具を準備させて、作業にあたる10名と一緒に現場へ行くように命令した。

ここで前島少尉の部屋に甲板士官の榎本宗応中尉が訪ねる。井上大佐から少尉と同じ命令を受けたと話し、指定された荒れ地へ行って、穴を掘る作業を始めるよう指示した。同じく現場へ行った前島少尉は、15分ほどして、榎本中尉と一緒に石垣島警備隊の本部へ帰った。そして、二人は士官室へ行き、井上大佐に「指定された位置で作業を始めました」と報告し、お茶を飲んだ。

そして、司令の井上大佐と副長の井上勝太郎大尉とお茶を飲んでいた二人は、午後6時ごろ井上大佐より、もっと近くに座るように言われ、大佐の側に移動した。そしてここから具体的な処刑方法が示されたのだったー。
(エピソード31に続く)

*本エピソードは第30話です。

ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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