「私は無実だ」えん罪を訴えるも死刑に処せられた男性「福岡事件」50回忌
死刑が執行されてしまったのに、えん罪の可能性がある。そんな問題をはらむ事件が、福岡には「飯塚事件」のほかにもう一つある。死刑執行から数えて50回忌を迎えた「福岡事件」だ。RKB神戸金史解説委員長が6月18日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で、元死刑囚の法要のもようを伝えた。
「福岡事件」とは
先日(4月30日)この番組で「飯塚事件」についてお伝えしました。1992年、福岡県飯塚市の小学1年生の女の子2人が殺害され、実行犯とされた男性が死刑に処せられた事件です。「えん罪だ」と主張する遺族が裁判のやり直し=再審を求めていました。死刑が執行された事件で再審が認められていれば、史上初めてのことでしたが、6月5日に棄却されました(遺族は抗告)。
女児を殺したのは本当に死刑囚だった?映画『正義の行方』の“真実”
https://news.radiko.jp/article/station/RKB/106888/
実は同じような事件があります。「飯塚事件」より45年も前の1947年、終戦直後に福岡市で起きた「福岡事件」です。
今から77年前の敗戦直後の混乱の中、現在の福岡市博多区堅粕で、軍服のヤミ取引の最中に、中国人と日本人の商人2人が射殺され、現金が持ち去られました。警察は強盗殺人事件と断定して捜査し、西武雄さん(32)らを逮捕しました。
西さんは、取引の手付金として現金を持ち帰ったことは認めた一方、事件とは無関係だと全面否認しました。被害者2人を射殺した30歳の男性も逮捕されていますが「抗争相手と誤って撃ってしまった」と、強盗目的であることは否定しました。しかし2人は、強盗殺人罪で死刑が確定しました。
2人を射殺した男性が、恩赦で無期懲役に減刑されたのが1975年6月17日。罪を認めていなかった西さんには恩赦が認められず、同じ日に死刑が執行されました。獄中28年、えん罪を信じて支援してきた方もたくさんいた事件です。
神道・仏教・キリスト教が集う50回忌
それから49年が経った今年6月15日、西武雄さんの50回忌の法要が「生命山シュバイツァー寺」(熊本県玉名市立願寺)で開かれました。ノーベル平和賞を受賞したシュバイツァー医師の遺髪を本尊としている寺院です。
先代の住職、古川泰龍さんが西さんのえん罪を信じて、再審を開くため全国を奔走してきた経緯があります。仏教のお寺で開かれた50回忌ですが、神道・仏教・キリスト教の3宗派でそれぞれの弔いが行われました。
大本:(かしわ手)謹みかしこみ、かしこみ申す。福岡事件に関わる無実の罪にて、福岡刑務所に…
まず、神道の宗派・大本(おおもと)教です。「大本」は死刑廃止運動を続けています。
神父:わたしを、あなたの平和の道具として、お使いください。
(讃美歌)♪主は われらの 牧者
キリスト教の讃美歌と祈りに続いて、最後は仏教です。
(鉦に続いて読経)仏説 阿弥陀経…
僧侶・古川龍衍さん:顧みれば、西武雄さんは無実を訴えながらも、獄中28年の苦吟の果てに処刑されし方なり。西さんのえん罪を晴らさんとする積年の悲願、道半ばなれど、確かに受け継がれ、今に至る。このような悲劇が二度と繰り返されぬよう、その実現に尽力せんことを誓う。
「叫びたし寒満月の割れるほど」
西武雄さんの魂の叫び、時空を超えて、世界に響き渡らんことを。
こうして3宗派の祈りが捧げられました。「叫びたし寒満月の割れるほど」は、獄中で西武雄さんが読んだ句です。西さんは死刑確定後も、仏の絵を描き、写経を続け、無実を訴え続けました。
「無実の罪の我が身に、涙のにじむ」
再審請求を続けてきた古川泰龍さんの「生命山シュバイツァー寺」は今、息子の龍樹さんが住職を務めています。50回忌に当たり、龍樹さんは西武雄さんが書き残した日記を読み上げました。
(西武雄さんが1961年に書いた獄中句日記より)
無実の罪の吾が身に涙のにじむのである。この生ける屍と耐えることの苦痛は誰がしろう。ある人はいう、それは宿業なりと。しかし宿業なりというだけでこの苦悩をはかり越えることは不可能であろう。
一日のうちで一時間だけ獄庭に出て日光に立てるうれしさ。しかし、しみじみと思うのである。冤罪で十四年、生きがたい人生であることに号泣したい思いである。
自殺を何度考えたことか――自殺したあとで冤罪の晴れてくれればいいが、これさいわいとして闇から闇に扱われるのがおちだろうと思うと、死ねない。
俺は生きながらの仏鬼となって自らを見守りたいと思う。誰も信ずる必要はない。私は私を信じているしそれだけが安らぎである。口先の、ていさいのいい慰めや励みなどは悲しみが深い。念仏のみである。
父から引き継いだ思い
ヤミ商人2人を射殺した男性は89年に仮釈放された後、涙ながらに、死刑が執行されてしまった西さんは「その場には一切いなかった」と訴え、先代・古川泰龍さんとともに再審を求め続けましたが、2009年までに事件の関係者は全員が亡くなり、再審請求は終了しました。今、えん罪を晴らす術は失われている状態です。
戦後まもなくの混乱期に起きた事件でした。被害者の1人は中国人ですが、当時の日本は敗戦国で占領下にあり、被害者は戦勝国・中国の国民なんです。そういうこともあって、裁判では戦勝国への忖度が働いたのではないかと、えん罪を訴えてきた人たちは主張していました。
古川龍樹さんは、人生をかけてずっと運動を続けてきた父・泰龍さんの言葉を紹介しました。
古川龍樹さん:えん罪で、身に覚えのないような破廉恥罪の強盗殺人の濡れ衣を着せられて死刑になるという不幸、つらさ、悲しさがあるだろうか、「こういう不幸はもう私だけでやめにしてほしい」と西さんが言っていたことは耳の底に残っている、と。
古川龍樹さん:こんな無残な死に方をさせていいものか。国家公権力によって力の弱い者が蹂躙(じゅうりん)されることが許されていいのか。そういう世の中、そういう日本に生きていることが、私は情けない感じがする。15年間も努力してついに通らなかったけれども、このままではやっぱり済まされない、という気持ちがあった、という風に最後に父が話しています。「このままでは済まされない」という言葉は、私の耳にも残っています。
古川龍樹さん:「まだ何でやるんですか」「福岡事件て何の意味があるんですか」と言われるんですね。西さんのこの無念をも、っと世の中に問いたい、知ってもらいたい。前はやっぱり司法に対しての戦いのような気もしていたけど、これはそうじゃない。西さんのことを知ってもらうことは、社会に対する問いかけとして考えていかなきゃいけないんじゃないかなと思っています。
多くの警察官、検察官が真剣に事件を捜査して「真実を明らかにしたい」と思っていることは間違いありませんが、時に誤りもあるかもしれません。だから死刑制度そのものに対する疑問や問題点もあるわけです。起きてはいけないことが起こらないようにするために、「福岡事件」を語り継ぎ、再審請求運動を続ける人たちがいる、ということをお伝えしたいと思って取材しました。
この記事はいかがでしたか?
リアクションで支援しよう
この記事を書いたひと
神戸金史
報道局解説委員長
1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。