突然の南海トラフ臨時情報…阪神・淡路大震災の取材を回想しながら考える
目次
1月13日の夜、日向灘で起きた地震の速報に、RKB毎日放送の神戸金史解説委員長は血の気が引いた思いをした。折しもこの日の日中、1995年に発生した阪神・淡路大震災の取材で出会った人たちと、連絡を取り合っていたという。翌1月14日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で「巨大地震はいつ起きてもおかしくない状況」と話したうえで、30年前の被災者との交流について語った。
阪神の取材先と連絡を取ったその夜に
阪神・淡路大震災(1995年1月17日発生)から、まもなく30年を迎えます。私は当時、毎日新聞の記者でした。現地に取材に入ってお世話になった人たちと、きのう(1月13日)、連絡を取っていました。
昨夜、日向灘で地震が発生した後、南海トラフ地震臨時情報(調査中、その後調査終了)が出て、本当にびっくりしました。地震速報を見て「あ、とうとう!」と身構えたんですが、福岡市内では震度3、揺れがそこまで大きくなかったので、「巨大地震発生ではないのかな」と。いつ大きな地震が起きてもおかしくない状況になっているからです。
でも、昨日のニュースを見ていて、「よくわからない」と思った方も多いんじゃないかなと思うんです。調査が終了して会見が行われましたが、「今回起こった地震は、南海トラフ地震の発生可能性が平常時と比べて相対的に高まったと考えられる現象ではなかった」と説明があったのに「いつ南海トラフで地震が発生してもおかしくないことに留意をしていただき、日頃からの地震への備えを確実に実施していただきたい」…。「一体どっちなんだ?」と思ったかもしれません。
「32時間」と「2年」…地学的には同じ
南海トラフ地震は、前回の発生が80年ほど前。戦争中の1944年に「昭和東南海地震」が起き、2年後の1946年に「昭和南海地震」が起きています。その90年前に起きたのが「安政東海地震」(1854年)です。この時は、たった32時間後に「安政南海地震」が起きています。南海トラフは、東側と西側でそれぞれが地震を起こす可能性があって、同時かもしれないし、どちらかが起きた後にどちらかが起きるということもあるのです。江戸時代は32時間後、昭和の戦争末期には2年間の時間が空いています。
※気象庁ホームページ「南海トラフ地震について」
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/jishin/nteq/index.html
地学的に言うと、この差は同じ。“一瞬で起きている”ことなのです。
人間の時間と地学のスケールの違い
新聞記者として雲仙火山災害を長期間、取材しました(1991~95年)。学会にも入って、研究者と親しく接していました。噴火は結局5年続いたんですが、ずっと被災地に住み込んで取材したので、私も被災者と同じように疲れていて、「一体いつまで続くんでしょう?」と学者さんに聞いたことがあります。
その答えは「1年かもしれないし10年かもしれない」でした。でも、それでは全然心が慰められません。「3年ぐらいかな」とか「8年ぐらいかな」と言ってほしくて質問していたのですが「神戸さん、地学の世界では『1の隣は2、2の隣は3』でなはく、『1の隣は10、10の隣は100』なんです」と言われました。
噴火が1年続くということは、10年続く可能性がある。10年続くということは100年続く可能性がある。3年なのか8年なのかと聞かれてもわからないのです。すごくがっかりした思いになりました。人間の人生を超えてしまうようなスパンで動く地学の世界で、32時間と2年はほぼ同じなんですね。一つの地震が起きてすぐ直後に起きた、と考えていいものなのです。
でも、前回から80年という数字は、実際に起きる可能性が非常に高まっていることを示しています。「平常時と比べて相対的に高まったと考えられる現象ではなかった」と、昨日の地震について発表されましたが、平常時がすでに高すぎる。さらに急激に高まったわけじゃないが、80年をかけて非常に高いところに来ている、ということです。
「南海トラフでは地震が発生してもおかしくない状況に入っている。起きる可能性が非常に高い。起きないわけがない」と考えた方がいいのです。なので、その地域に住んでいる方々はそのつもりでいなければいけないし、日本経済全体が大打撃を受けることは間違いありません。いずれ起きる可能性がある、と考えなければいけないのです。
「大地動乱の時代」に生きている私たち
『大地動乱の時代 地震学者は警告する』(石橋克彦著、1994年)という岩波新書があります。30年以上前に、「日本は“大地動乱の時代”に入った」と地震の専門家が書いた本で、いまだに書店に並んでいます。若い頃に読んで、非常にわかりやすく、衝撃を受けました。
戦後は巨大地震が起こらない“地学的平和”の時代だったから、日本は経済成長し、復興できたのだ、と。単発的には福井地震(1948年)とか新潟地震(1964年)とか、地震が起きています。局地的な被害は大きいけれど、日本全国に被害を及ぼす巨大地震は起きていなかったことが、経済成長や平和をもたらしました。これを“地学的平和”と呼んでいました。それが終わり、これから“大地動乱の時代”に入る、と予告していました。
翌95年に、阪神・淡路大震災が起きました。それから、東日本大震災が2011年に起きます。間隔が空いたように思われますが、先述したとおり地学的にはあまり変わりません。私たちは今“大地動乱”時代の真っ只中に生きています。だから、「平常時と比べて相対的に高まったわけではない」かもしれないけれども、いつ南海トラフで巨大地震が発生してもおかしくありません。そういった意味だということです。
阪神・淡路大震災の現場で
阪神・淡路大震災から、1月17日で30年。私は当時28歳でしたが、鮮明に覚えています。新聞社に入って雲仙・普賢岳災害に遭遇して、25~28歳の3年間は現地に住み込みました。被災者とともに暮らすのが日常でした。1995年に、阪神・淡路大震災が起きて、ヘリコプターから撮影した、燃えている神戸の街並みの映像を見て、「この下でどんなことが起きているのか」と、災害報道に携わっていただけに心が震えるような感じになりました。
最初に土地勘のある記者が現地に入って、2週間ほどして私たち第2陣が取材に入りました。「あなたは被災者の避難生活を知っているから、その現場を見た人間がこの被災地をどういうふうに見るか、ルポを書いて記事にしてほしい」と指示されました。
阪神電車もまだ神戸市東灘区で止まっていました。市中心部の三宮駅(中央区)まで普段は20分くらいで行けるんですが、青木(おおぎ)駅から1時間半くらいかけて歩かなければならない状態でした。
青木駅から北に10分くらい歩いたところにあったのが、神戸市立福池小学校でした。1月末当時、約800人の被災者が学校にいました。壊れた家の柱や板を燃やして、暖を取っていました。地震発生から2週間経っているのですが、まだそういう状況でした。学校には一番多い時、1900~2000人いたそうです。
小学校は「まるで野戦病院」
福池小学校の先生には大変お世話になりました。上田美佐子教頭が話をしてくれました。
・学校は3日間、孤立状態だった。
・教員30人のうち、若い女性教師1人が亡くなった。自宅が全半壊した教員は9人。生徒は3人、保護者1人が犠牲になった。
・けが人は続々と運び込まれてきた。遺体も運ばれてきて、理科室の机の上に安置した。次々に運ばれてきて、生活科の教室にも安置した。学校まで着いて亡くなる人、保健室で息絶えた人もあり、19人の遺体が安置された。
・「生き埋めの人を救い出す道具を貸してほしい」と近所の人が押しかけてきた。あるだけの道具を渡したが、中には図工室のガラスを割ってのこぎりを持ち出す人もあった。切羽詰まった様子を見ると、止めることはできなかった。さながら野戦病院のような様相だった。
2日後の1月19日になって、電気がついた時、校内の空気が全く変わったそうです。暗闇が去って1人1人の顔が照らし出されると、期せずして歓声があちこちから上がりました。「あの光が、生きる勇気を湧き立たせたんです」と、上田先生は話していました。
翌20日には、トイレが大変なことになっていました。避難してきている女性たちが手袋をして、手ですくって全部外に出して。男性は校庭の一角を掘って仮設トイレを作りました。上田先生が「あの時のお母さんたちは、ものすごく偉かったです」と言っていたのは、30年経った今でもはっきり覚えています。
上田先生がまとめた震災直後の福池小学校3日間の記録は、神戸市教委『阪神・淡路大震災と神戸の学校教育』(26~28ページ)に掲載されています。
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/eqb/0100055609/
避難生活を手伝いながら取材
今では考えられないことかもしれないですけれど、避難所の取材で仲良くなった方がいて「今日は夜どうするの? うちに泊まりなさい」と言われたことがありました。「うち」とは、体育館の中で家族5人で暮らしている、段ボールで区切られたスペースです。10代後半~20代の娘さんが3人いました。ぎゅうぎゅう詰めですけど、家族の中で寝させてもらいました。
一晩に使えるお湯は一家でやかん3杯だけでした。その方が夜中、焼酎のお湯割りを作ってくれました。生のキャベツがあって、「これをつまみにすると、意外と甘くておいしいんよ」と。
福池小学校には、安否確認をするために自転車が20台ほど寄付されていました。2週間経っていたので、安否確認はすでに終わっていて、自転車は使われていませんでした。教頭先生が「神戸さん、取材に使ってください」と言ってくれて、私はその自転車を借りて神戸市内をずっと走り回りました。
取材の合間には、食事の配給を手伝いしました。みんな、温かい食事がとにかく欲しかったのですが、やっと温かいものが出始めたばかりでした。そのとき、ジャムパンの山を見せてもらいました。差し入れられたものですが、寒すぎて凍っていました。ジャムが凍ったパンは、とても食べられません。「こんなに溜まっちゃってるんだけど、誰も手つけてくれなくて、どうしようもなくて」と被災者の方が話していました。そりゃそうですよね。とにかく寒かったです。
30年ぶりの再会を約束
学校に避難していない近所の人たちは「学校に行けば何かある」と訪れます。校内の住民は自治組織を作って、一生懸命みんなに分けようとします。私もその手伝いをずっとしていました。しかし、「早くしてくれ」「こっちは1時間も待ってるんだ」なんて罵声が飛んだりすることもありました。
でも、罵声を受けているは、被災者なのです。地震災害はそこら中でいろいろな人が被災していて、自分たちで立つしかない。「誰かが助けてくれる」ということはなく、自治組織を作るしかない。「空襲の後の現場」のような印象を強く持ちました。
一方、いろいろな人たちの人間的な優しさも、たくさん見ました。家から離れられないおじいさん、おばあさんのところに、学校の被災者がすいとんを持って配りに行くのを手伝いに行きました。被災者の人たちが「学校にいる人だけが温かい食事をとれるだけではまずい」と考えたのです。そして、学校の先生がバックアップする。「ああ、ここまでみんなするんだ」と。その現場に、僕は2週間いました。「人間って、ここまでやれるんだ」と思いました。
1995年に『雲仙記者日記 島原前線本部で普賢岳と暮らした1500日』(ジャストシステム刊)という本を書いた時、阪神の取材に私は1章を費やしています。現在は『雲仙記者青春記 新米記者が遭遇した、災害報道の現場』と改題して、全文をネット公開しています。
https://note.com/kanbe67/m/m7b35a97cf3ae/hashtag/83841
たまたま昨日(1月13日)、地震の前に、久しぶりに福池小学校の先生と連絡を取ったら「いつかお会い出来ないかなと思っています」と言われました。毎年8月に、当時の保護者と教員で集まっているのだそうです。「会合でも神戸さんのことが語られています」と聞き、うれしくなりました。近々、神戸に行って、当時の福池小学校の先生や避難していた皆さんとお会いしたい、と思っています。
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この記事を書いたひと
神戸金史
報道局解説委員長
1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。