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雲仙噴火災害「ヒゲ市長」鐘ヶ江管一さん逝く…惜別の声と忘れられない教訓

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長崎県の雲仙・普賢岳噴火災害(1990~95年)で、地元の島原市長として災害対応を指揮し、「ヒゲ市長」として知られた鐘ヶ江管一さん(享年94歳)が死去しました。新聞記者として現地で4年間取材したRKB毎日放送の神戸金史解説委員長は、通夜に参列。8月26日放送のRKBラジオ『田畑竜介Grooooow Up』で、「ヒゲ市長」を惜しむ言葉を伝えました。

特異な災害「雲仙火山噴火」

遺影は市長当時のヒゲ姿

8月24日、鐘ヶ江管一さんのお通夜に行ってきました。私は毎日新聞の駆け出し記者時代に災害に遭遇し、現地で延べ4年間取材をしたので、鐘ヶ江さんとも親しくお付き合いしました。

雲仙災害は、大きな特徴があります。

①江戸時代以来198年ぶりの噴火でしたが、当時の10倍も溶岩が地上に出てきて、「平成新山」ができました。雲仙火山としては、4,000年ぶりの造山活動でした。江戸時代の噴火は、平成噴火の前兆に過ぎなかったのです。

②5年も続く異例の長期災害となり、ここに住む人たちにとって非常に負担が大きかったこと。

③人が住む地域に、災害対策基本法が定める警戒区域が初めて指定され、罰則付きで立ち入りが禁止されたこと。被災していなくても、「危ないから出てください」と法律で制限し、区域内のホテルは立ち枯れ状態になり廃業、家畜もみんな死んでしまいました。にもかかわらず、何の補償もなかった。次に人が住む地域に警戒区域が設定されたのは、福島第一原発事故です。

④メディアと火山学者に、犠牲者が多数出たこと。これも大きな問題になりました。

異例の長期災害下で市職員は

メディアは犠牲者を出した後も島原市内の取材前線本部を拠点に、避難住民の取材を続け、少なくとも1年間は毎日、災害対策の記事が新聞もテレビにも出続けました。大きな犠牲を前に「一過性のニュースにしない」「何としても被災者を社会から忘れさせてはいけない」と誓っていたからです。私もそういう思いで取材していました。その当時に知り合ったのが島原市職員組合の委員長、松下英爾さんでした。お通夜の後で話を聞きました。

神戸: 災害当時は、島原市職労の委員長でしたね。

松下さん: そうですね。ちょうど噴火した1990年11月から委員長になりました。鐘ヶ江市長さんとはそれからも一緒に、私自身も職員の代表ということで。市長は非常に激務で、職員ももちろん一生懸命働いて頑張りました。

松下さん: 91年6月3日の大火砕流の後、翌年3月に組合の定期大会を開いた折に、「ぜひ鐘ヶ江市長に来ていただいて、ごあいさつを」とお呼びしたら、激励とねぎらいと同時に、「一緒に山に向かって、負けないで頑張ろう」とおっしゃった。働いている職員たちも一同感動して、「よし頑張ろう」とみんなが決意を新たにして、それから(災害が終わる)4年後まで戦って一緒に行けたなと思っています。

松下さん: 私たちも労働組合ですので、警戒区域の近くで仕事をすること、場合によっては(警戒区域の)中に入ることもあった時に、市長はちゃんと協議してくれました。年に1回だった健康診断も2回にしてくれたりして、過重業務で過労死を起こさないというところも一緒に理解していただいたと思っています。

 

市職労定期大会で話す鐘ヶ江市長(「雲仙普賢岳噴火災害記録集 Vol.8」より)

避難勧告と警戒区域の設定

大火砕流が起きたのは、91年6月3日でした。43人が犠牲になりました。その時は「危ないから出てください」という避難勧告が出ていただけで、強制力はありませんでした。鐘ヶ江さんも犠牲者を出したことを、とても後悔していました。

ただ、その後で警戒区域を置くことに対して、「住民への補償は定められていない。こんなことを決めたら私は生きていけない」と言って、かなり抵抗しました。長崎県知事から強く頼まれた時、「もう楽になりたい。ここから飛び降りて私は死にます」とまで言っています。

しかし、6・3大火砕流の後、警戒区域を設定します。これに伴って、住民の苦悩がずっと続いていきました。鐘ヶ江さんはそれを背負っていた部分があるのです。

通夜の会場でもう一人、島原市にある九州大学地震火山観測研究センターの松島健教授にも話を聞きました。松島さんは大火砕流の直後に助手として採用され、太田一也教授のもとでずっと島原で研究を続けてきました。

対談する鐘ヶ江元市長(中央)と太田和也教授(その右)、一番左は松下英爾さん、「雲仙普賢岳噴火災害記録集 Vol.8」より)

松島教授: 鐘ヶ江さんは「災害のいろいろなことを教訓として残すべきだ」と強く言って、災害が終わった後も雲仙岳災害記念館の名誉館長になって、ずいぶん何度もあちこちに行っていらっしゃった。災害で学んだことを教訓として残す、太田(一也)先生もいろいろな本を書かれましたが、鐘ヶ江さんと太田先生はそういう形で残していらっしゃいます。でもそういう方々もどんどん亡くなっちゃうわけです。我々が災害記念館という場所をちゃんと残して、先輩たちの意思を継いで、災害の教訓を残していかなければならないなと思います。

「雲仙のホームドクター」と言われた太田一也先生は、1月に亡くなりました。科学面では太田先生が、実際の生活・防災対策については鐘ヶ江市長が取り組みましたが、鐘ヶ江さんは翌92年に退任します。

これは、長期災害が続いている中で市長選が選挙戦になってしまったことが大きな理由です。対抗馬が出たのは自分への不信任だと捉えて、出馬をしなかったのです。

鐘ヶ江さんは市長時代、ヒゲをずっと伸ばし続けた姿で、ニュースに毎日のように出ていました。今日持ってきたスクラップブックには、私が当時書いた記事と鐘ヶ江さんの写真が載っています。「鐘ヶ江」という名前を知らなくても、島原のヒゲの市長なら日本国内のみんなが分かる、という状態でしたね。

語り継ぐべき「雲仙の教訓」

松島先生が言っていた「教訓」、一言では言えませんが、行政、政治、メディア、さまざまな分野で「こうした方が良かった」「こうしたことが良かった」と、いろいろな教訓があります。

太田先生は「自然をもっと恐れるべきだ」と強く言っていました。メディアに対して勧告したのに避難していなかった、と私もずいぶん怒られました。

メディアにとっても、取材過程での教訓はたくさんあって、大火砕流から10年間「マスコミと市民の対話集会」を開き、住民との対話を続けてきました。取材は「生きて帰る」ことが大前提でなければいけない。でも、火山噴火の規模は想像を超えました。大火砕流が何百メートルも伸びてくるとは思っていなかったのです。

市職労が出した「雲仙普賢岳噴火災害記録集 Vol.8 —災害の体験と教訓を後世に—」(1998年)で、鐘ヶ江さんは「自然には敵わないということ、これが第一の教訓です」とはっきり言っていました。私も本当にそう思っています。そして、雲仙からはっきりと防災対策やメディアは変わってきました。ただ、あまりに痛恨の事故でした。

お茶目だった鐘ヶ江さんに合掌

当時の記事のスクラップ帳から、剃髭式の様子

鐘ヶ江さんは、人柄が明るくて、面白い人でした。

神戸: 鐘ヶ江さんってなんかちょっと、お茶目で。言い方が悪いけど、少し子どもっぽいところもなかったですか。

松下さん: ありましたよね。

神戸: だいぶ年上の方なのに、失礼ですけど。

松下さん: 明るくて、ジョークも大きな声でおっしゃって、気さくな方でした。大きな子どもみたいな気さくさがあったなあ、と思います。

神戸: 派手なことも好きでしたよね。

松下さん: そうですね。はい。

神戸: ヒゲを剃る時、「剃髭式(ていししき)」が開かれました。

松下さん: 神戸さんも出られたですよね。

神戸: ヒゲを剃る時に式を開く人、私は初めて見たんですが、目立つことが好きでした。

松下さん: そうですね。PRはすごくされていました。誰かが表彰されたり、何かいいことをして新聞に載ったら、必ずその方には「見たよ、頑張っているね」と電話をされた。よく声をかける心遣いを持っている人だと思っていました。

神戸: そういう人だから、義援金がたくさん集まったっていう面も…

松下さん: あると思います。

1992年に菩提寺で開かれた剃髭式は、相撲の断髪式みたいな感じで、20人くらいがヒゲにハサミを入れていって、私たちは取材しつつ「これは、どう思ったらいいのだろうなあ…」と考えながら、記事を書きました。

そり落としたヒゲで作った能面

そういった憎めないところもある鐘ヶ江さんが真剣に「普賢岳災害と戦っている人を助けてくれ」とメディアで伝えたことは非常に大きな意味があり、230億円もの義援金が集まってきたのです。これが災害復興の原資となっていったわけで、鐘ヶ江さんのやったことは非常に大きかったと思います。参列した人たちも改めてそうおっしゃっていました。

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この記事を書いたひと

神戸金史

報道局解説委員長

1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。