戦争中、赤紙で召集されたのは兵隊だけではありませんでした。戦地で命を落とした日本赤十字社の従軍看護婦。戦時資料を収集している男性看護師(67歳)は当時に思いを馳せます。福岡県大牟田市で開かれている企画展「戦時資料とカルタでたどる戦後80年」を取材したRKB毎日放送の神戸金史解説委員長は、9月9日放送のRKBラジオ『田畑竜介Grooooow Up』で伝えました。
戦場に向かった看護婦たち
日本で「終戦(敗戦)の日」は8月15日ですが、世界史的には戦争終結調印の9月2日です。しかし、実際には極東ソ連軍の侵攻が続いていて、満州・樺太などでは8月中も戦闘が続き、9月3日に南千島の歯舞諸島が占領され、朝鮮半島では9月17日に38度線以北のソ連占領が終わりました。1か月あまりの短い時間ですが、いわゆる「日ソ戦争」は80年前のきょう9月9日もまだ続いていました。
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大牟田市立「三池カルタ・歴史資料館」ではこの夏、「戦時資料とカルタでたどる戦後80年」という企画展を9月21日まで開催しています。戦時中の写真や大牟田に投下された焼夷弾などの実物が展示されています。
企画展に合わせ、熊本県荒尾市在住の戦時資料収集家、松山強さん(67歳)が9月7日に講演したので、聞きに行ってみました。松山さんは20歳くらいから戦争の資料を集め始め、軍服や鉄かぶとなど1,000点以上を保有していて、博物館や資料館に貸し出したりしています。母親の兄が戦死したこと、父親が海軍にいたことがきっかけでした。

お話は多岐にわたったのですが、特に印象に残ったのは日本赤十字社から戦地に派遣された看護婦のことでした。松山さんはご自身が看護師。50年前に大牟田市医師会の看護専門学校に入って、そのまま病院での看護師生活を始めました。自分が看護師でもあることから関心を持って資料を集めてきたそうです。
松山強さん: 一般的には「従軍看護婦」と言いますが、正式には「日本赤十字救護看護婦」。写真は、出征時の「水さかずき」の儀式です。後方には、見送る側の看護婦が写っています。制服は、大正15年6月に改正された濃紺のワンピースです。その後現在まで長くデザインは変更されていません。現在でも日本赤十字の看護婦養成所では、卒業式がこの制服姿で行われ、「式服」と呼ばれています。
松山強さん: 婦長が1名、看護婦20名、書記(事務担当の男性)が1名、仕丁(身辺の世話をする男性用務員)が1名の計23名。これが1個班、基本の人員編成です。戦線全般に派遣されています。北は樺太、満州、中国各地、東はパプアニューギニアからニューブリテン島のラバウルまで。大東亜戦争の終わりには最終的には960個班に達したと。約2万名の看護婦さんが出ていったということです。
延べ数では、3万人を超える女性たちが出征しました。ほとんどが10代から20代の女性で、高等学校の卒業生や生徒までも動員されました。
戦地で自決した日赤看護婦も
戦闘の前線すぐ後方に応急処置をする「包帯所」があり、その後ろには「野戦病院」、さらに後方に「兵站(へいたん)病院」があって、このあたりから従軍看護婦がいた。さらに奥に、治療する「陸軍病院」があったということです。

松山強さん: 軍隊の治療というのは、回復してまた戦える兵士を優先するんですよ。戦えない兵士を手厚く治療することはありません。そんな余裕がないんです。
松山強さん: 原則として、看護婦の勤務場所は、敵の砲弾が届かない安全な「兵站病院」までとなっていたのですが、戦況が不利になると各病院はどんどん前線に近くなった。前線の方から寄ってくるんですよね。押し戻されると言うか。空の優勢がなくなってくると、爆撃や機銃掃射を受けるようになります。そうなると、もう安全な所はなくなっていきます。病院船や病院列車、野戦病院には赤十字を掲げていましたけど、むしろその赤十字自体が攻撃目標になっていきました。
松山強さん: 赤十字の理念では、逃げられない場合、衛生要員とともに敵に委ねるという文言があります。しかし日本にはそれを妨げるものがありました。『戦陣訓』という、兵士に配られた、小さな冊子です。『戦陣訓』には「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」の一節があります。捕虜となって生き恥をさらすよりは潔く死のう、という意味があります。あまりにも人命を軽視した文言ですけど、昔はそれが当たり前だったんですかね。看護師さんたちも一緒です。迫りくる敵から逃げられないと判断した時は、自ら命を絶ちました。青酸カリを渡されたり、自ら「ください」と要求したことも多かったそうです。
松山強さん: 自決をしたという話は、いくらでもあるんです。本来ならば、平和な場所で「白衣の天使」として働くはずの女性たち。あの時代、1,220名の日赤看護婦が大切な命を散らしてしまいました。私が看護師なものですから、看護師さんについて興味がありましたのでいろいろ調べてみたわけです。

戦場と言うと男性の印象が強いので、看護師さんの自決はあまり想像したことがありませんでした。
子どもに軍国主義を叩き込むカルタ
松山さんが講演したのは、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館です。
三池カルタ・歴史資料館 日本に1枚だけ現存する国産最古の「天正カルタ」(兵庫県芦屋市・滴翠美術館蔵)に、「三池住貞次(三池に住む貞次)」と製作者の記銘があることから、三池地方(現在の大牟田市域)が日本のカルタ発祥の地とされ、1991年に日本で唯一のカルタ専門資料館として開館。日本古来の百人一首やいろはカルタ・歌カルタ・花札をはじめ、海外のトランプやタロット・家族合わせなどで、計1万3,000点あまりを所蔵。
収蔵品には、戦時中に子どもたちが使っていたカルタも約200点あり、一部が展示されていて、梶原伸介館長と一緒に見ることになりました。
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梶原伸介館長: 元々カルタは、子どもの遊びとして明治・大正時代から普及し始め、ひらがなを覚えたり、道徳や教訓を学んだりするのが役割だったのですが、戦争が始まって以来、戦意高揚を目的に作られることが増えてきました。今回は、太平洋戦争が始まった昭和16年(1941年)から19年(43年)にかけて制作された「戦時カルタ」を中心に展示しています。
神戸: 実際には、どう使われたんですか?
梶原館長: 兵士を称える目的とか、銃後を守る女性たち・子どもたちの役割を書いたものが中心になります。カルタの札によって戦中の心構えとか、戦地に赴く兵士たちに対する思いとかを叩き込ませるというのが目的だったかと思います。
神戸: 一般の家庭で使われてた、ということでしょうか。
梶原館長: そうですね。
神戸: 国防婦人会に入っているお母さんが、少国民である子どもたちに、銃後の守りの気持ちを教えるために使った……。
梶原館長: はい、それが第一の目的だと思います。
神戸: 梶原さんが一番印象に残った札は?
梶原館長: ああ、そうですね……。一番端的なのは、この「いのちささげて おくにのために」。戦時教育の最たるものかな、と。
神戸: 子どもに「自分の命を、お国のために捧げましょう」と教えるわけですね。はああ……。
展示されていた「戦時カルタ」を引用します。

(1)「ひらがな錬成カルタ」 「いのちささげて おくにのために」(命捧げて 御国の為に) 「さすがほまれの やすくにのいじ」(さすが誉の 靖国の遺児) 「ちょきんだい一 おくにのために」(貯金第一 御国の為に)
(2)「海軍カルタ ヘイタイサンアリガトウ」 「広い大海 マモル海軍」 「潜水艦ガ 不敵ノ砲撃」 「朝日ヲウケテ 大砲手入レ」
(3)「愛国軍歌イロハカルタ」 「ヘイタイサンヨ アリガタウ」 『兵隊さんよ有難う』より 「イザユケツハモノ ニッポンダンジ」 『出征兵士を送る歌』より 「ヨクコソサイテ クダサッタ」 『父よあなたは強かった』より
非常に興味深い展示でした。大牟田市立三池カルタ・歴史資料館の平和展2025「戦時資料とカルタでたどる戦後80年」は、9月21日まで開かれています。
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この記事を書いたひと

神戸金史
報道局解説委員長
1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。






















