概要
最初に「あかね荘」を訪れたのは5年前でした。場所は飯塚市(旧筑穂町)にあり、福岡市東区からは車で30~40分ほどと比較的近い場所にあります。
「あかね荘」は、地元で古くから親しまれているブランド牛「筑穂牛(ちくほぎゅう)」を提供する日本料理店です。2014年の『ミシュランガイド』では一つ星として掲載された人気店で、現在は3代目の井上直樹さん(44歳)が、2代目のご母堂たちと一緒にお店を切り盛りされています。
しゃぶしゃぶをメインに、ステーキやすき焼きなどを提供する完全予約制のお店で、福岡県内はもちろん、県外や海外からも多くのお客さまが訪れます。
「あかね荘」が地元のブランド牛である筑穂牛に力を入れ始めたのは40年以上前。筑穂牛は、美しいサシが入った柔らかい肉質と、独自の配合飼料によりストレスを抑えて育てられた黒毛和牛です。「たくさん食べても胃もたれせず、サラリとお腹に入っていく」というのが私の印象でした。
当時、直樹さんにお話を伺ったところ、40年前には旧筑穂町に約40軒あった筑穂牛の畜産農家が、当時はわずか2軒にまで減少していたそうです。
さらに、そのうちの1軒であり、「あかね荘」が肉を仕入れていた「瓜生(うりゅう)牧場」から、「畜産業を廃業しようと思っている」という相談を受けたばかりでした。ちょうど5年前、コロナ禍のまっただ中のことです。
「このままでは地元から筑穂牛のブランドが消えてしまうという危機感は以前からありましたが、それが現実になるという衝撃のニュースでした。瓜生牧場の廃業は『あかね荘』にとっても筑穂牛を仕入れられなくなるという致命的なピンチ。『なんとかしなければ!』と必死でした」と直樹さん。
悩みに悩んだ末、直樹さんは自ら筑穂牛を育てるという「畜産業への進出」を決断したのです。
5年前にお会いした時は、まさにその挑戦の真っ最中でした。あれから5年。今回は、その後の5年間で3代目・直樹さんが成し遂げた新事業への進出と、それに伴う苦労や葛藤についてじっくりとお話を伺いました。
2022年に完成した精肉加工販売所
筑穂牛とは
まずは、筑穂牛(ちくほぎゅう)の歴史や特徴について整理してみましょう。
筑穂牛は、飯塚市(旧嘉穂郡筑穂町)を中心に肥育されている黒毛和牛ブランドです。福岡県内でも最古級の歴史を持ち、きめ細やかなサシと深い甘み・コクのある味わいが特徴です。 ブランドの誕生は1968年(昭和43年)頃。旧筑穂町の肥育農家が中心となり、但馬牛などの優良な黒毛和種を導入して肥育を開始したのが始まりと言われています。筑豊地域の冷涼な気候と豊かな水系に恵まれた環境を生かし、高品質な肉牛づくりが本格化しました。
その後、飼料の研究が進み、炊いた穀物(炊き餌)や自家配合飼料を与える独特の肥育技術が確立されました。これにより肉質が飛躍的に向上し、各種共進会(品評会)でも高い評価を獲得。「筑穂牛」の名は、福岡県内外の食通や肉のプロの間に広がっていきました。 後年、福岡県全体のブランド統一として「博多和牛」などが推進されましたが、筑穂牛はその独自のこだわりと高品質を守るため、地域限定の希少ブランドとしてのアイデンティティを保ち続けています。
生産農家数が限られており、年間出荷頭数が非常に少ないため、一般のスーパーマーケットに並ぶことはほとんどありません。地元・飯塚市周辺の精肉店や指定取扱店、一部の高級レストランや鉄板焼き店などで消費されることが大半で、「幻のブランド牛」とも呼ばれています。
2021年撮影
「あかね荘」の歴史
続いて、「あかね荘」の歩みを社会背景とともに振り返ります。
筑豊地方といえば、江戸時代から明治初期に始まり、第二次世界大戦前に出炭量のピークを迎えた炭鉱の町です。明治30年代には、全国の石炭産出量の50%以上を筑豊が占めていたと言われています。しかし昭和40年代に入ると、産業構造の変化に伴い、閉山する炭鉱が相次ぎました。
「あかね荘」は、そうした閉山期にあたる1964年、直樹さんのお祖父様が地鶏・鯉・鴨の料理店として創業されたのが始まりです。
「祖父自身も炭鉱で働いていたのですが、閉山が始まったことで『別の仕事を始めなければ』と思い立ち、『あかね荘』を開いたそうです。当時は今の10倍ほどの人口がいましたが、周囲には炭鉱関係以外の施設もなく、まだ外食の習慣も根付いていない時代でしたから、かなり思い切った挑戦だったと思います」と直樹さん。
その後、約40年前に2代目であるお父様が地元の「筑穂牛」に着目。筑穂牛をメイン食材とした牛肉料理店へと業態変更し、現在の「あかね荘」の基礎が築かれました。
「ところが、父が2007年に急逝しました。当時、僕は福岡市内の飲食店で料理人として働いていたのですが、急遽実家に戻り、3代目としてお店を引き継ぐことを決めました。父とともにお店を守ってきた母が看板娘として店を仕切ってくれたおかげで、僕は料理の味と伝統を継承することに集中できました。その後、2014年には『ミシュランガイド』で一つ星をいただき、お客さまの応援に支えられながらなんとかやってきました」と直樹さん。
3代目の直樹さんとお母様による協力体制のもと、順調に営業を続けていた2020年。しかし世界中を襲ったコロナ禍により、状況は一変することになります。
コロナ禍と筑穂牛の存続危機
人気店として順調に歩んでいた「あかね荘」ですが、2020年春からのコロナ禍に伴う緊急事態宣言により、営業時間の短縮や酒類提供の制限など大きな打撃を受けます。さらに深刻だったのは、和牛肉全体の出荷量が激減したことでした。これが、直樹さんに大きな決断を迫ることになります。
直樹さん うちだけに限らず、外食自粛によって和牛全体の需要が激減しました。スーパーなど家庭用の需要は維持されていたと思いますが、外食やインバウンドの減少により、高級レストランやホテルなどで使われる高価格帯の和牛肉は需要が落ち込み、価格が暴落したのです。飲食店には協力金や補助金などの支援がありましたが、畜産農家への直接的な救済策は十分ではありませんでした。
そんな中の2020年12月、「あかね荘」の仕入れ先である瓜生牧場から、「約100頭の牛を抱えた経営をこれ以上続けるのは難しい。廃業したい」との連絡が入ったのです。
── それはショックな知らせですね。コロナ禍による価格暴落が引き金だったとはいえ、畜産農家が抱える構造的な課題もあったのでしょうか。
直樹さん そうなのです。全国の畜産農家と同様、筑穂牛においても飼料価格の高騰、農家の高齢化、そして後継者不足が深刻な課題でした。頭数を急速に増やすことが難しい反面、一頭一頭に手間をかけて品質を維持するスタイルを守ってきたからです。2021年頃からは、世界的な穀物需要の増加や物流の停滞、円安の影響で、輸入トウモロコシなどを原料とする配合飼料の価格が急騰しました。多くの畜産農家が深刻な赤字経営に追い込まれていたのは間違いありません。
── 「あかね荘」にとって、筑穂牛の仕入れができなくなることは死活問題ですよね。
直樹さん まさに致命的でした。瓜生さんから廃業の話を聞いた時点で、筑穂牛の在庫は1年分残っていました。しかし、「その先はどうするのか?」と考えたとき、これはうち一店舗の問題ではないと気づいたのです。父の代からお世話になってきた筑穂牛のブランド、そして町に2軒しか残っていない生産農家をこのまま見過ごすわけにはいかない。そうして出した答えが、瓜生さんに協力してもらいながら「あかね荘」自らが畜産業へ参入する、という決断でした。
── 大きなリスクを伴う大変なご決断ですね。周囲の反応はいかがでしたか?
直樹さん 相談した周囲の人ほぼ全員から「やめておけ」と反対されましたね。特に同業の畜産に携わる方ほど強く反対されました。構造的に利益を出しにくい産業であり、年々畜産人口も減少している。さらに和牛の出荷頭数が減り、価格も低迷したままでしたから、「今から飛び込むのは無謀すぎる」と思われるのは当然だったと思います。
── お母様は反対されなかったのですか?
直樹さん 反対まではされませんでしたが、相当心配はしていましたね。それでも「筑穂牛がなくなったら“あかね荘”の存在する意味がなくなる」という強い信念のもと、母ともしっかり話し合ってチャレンジすることを決めました。
1964年から続く「あかね荘」の店舗
「あかね牧場」の誕生
── 牧場をスタートするにあたり、現場の管理はどのようにされたのですか?
直樹さん 瓜生牧場の瓜生さんに当社の社員になっていただき、現場責任者として引き続き筑穂牛の管理を担当してもらうことになりました。瓜生牧場は、子牛を仕入れて肥育し、成牛にして出荷する「肥育農家」です。あかね牧場となっても最初の仕事は子牛の仕入れでした。2021年1月には早速、子牛のセリ市場へ向かいました。
── 相談を受けてからわずか1ヶ月。まさに即断即決ですね。ちなみに子牛は1頭あたりどのくらいの価格なのですか?
直樹さん 当時で1頭あたり約80万円でした。しかし、本当にお金がかかるのはそこからです。出荷までには約20ヶ月間育てる必要があります。つまり、一度でも子牛の購入を止めてしまうと、20ヶ月後に出荷できる牛がいなくなってしまうのです。だからこそ、瓜生さんから「やめたい」と相談された1ヶ月後には、次の子牛を買う決断をするしかありませんでした。並行して、飯塚市などの行政機関へ畜産業参入の手続きを行うのも大変な作業でした。ただ怪我の功名と言いますか、コロナ禍で飲食店事業の稼働が下がっていた分、僕自身が動ける時間を確保できたのは助かりました。
── 80万円で仕入れた子牛を20ヶ月肥育する間、どれくらいの経費がかかるのでしょうか?
直樹さん 「作業する人件費を除いても、飼料代や医療費、水道光熱費、保険料などで1頭あたり約70万円かかります。つまり、出荷時に枝肉(骨と肉の状態)で150万円で売れたとしても、原価が150万円かかっているため、人件費の分は赤字になってしまいます。実際、当時の枝肉出荷価格は100万~150万円程度でしたから、みんなが廃業してしまうのも当然の状況でした。
── それでも畜産に取り組む価値があると信じたのですね。
直樹さん やり方次第で必ず打開策はあると思っていました。ただ、最初に購入した子牛が出荷できるのは20ヶ月後です。その間も、平均して毎月5頭の成牛を出荷し、新たに5頭の子牛を仕入れ続ける必要があります。
── 約100頭を肥育しているわけですから、5頭×20ヶ月=100頭という計算ですね。
直樹さん そうです。一番苦労したのは、その20ヶ月間の資金繰りでした。コロナ対策資金の融資を受けたり、金融機関や行政、JAなどに相談して奔走しながら、なんとか乗り切りました。
── そして5年が経過した現在、無事に出荷が継続し、資金循環も軌道に乗ったわけですね。
直樹さん はい、おかげさまでようやく落ち着きました。現在はメス牛のみ約100頭を肥育しています。メス牛の肉は脂の融点が低く、キメの細かい肉質になるのが特徴です。とはいえ、100頭規模でも毎月約200万円の飼料代がかかり、人件費や諸経費を考えると、100頭を維持・育成するだけでも大きなリスクと責任を伴う事業だと実感しています。
現場責任者の瓜生さんと筑穂牛
「逆6次産業化」の完成
── 畜産業への参入後、加工や販売(小売)の分野にも事業を広げられましたね。
直樹さん はい。2021年3月に、コロナ禍で影響を受けた中小企業の事業転換や新分野展開を支援する「事業再構築補助金」の募集が始まりました。「これだ!」と思い、すぐに申請を決意しました。専門家の方々の力を借りて計画を練り上げ、2回目の申請で無事に採択されました。
── それが、「あかね荘」の敷地内に建つ新しい施設ですね。
直樹さん そうです。補助金を活用して店舗敷地内に精肉・加工設備を導入しました。自社で丹精込めて育てた筑穂牛を解体・精肉加工し、ヒレやロースといった定番部位だけでなく、希少部位や加工品(メンチカツやコロッケなど)まで余すことなく商品化できる体制を整えました。従来の『完全予約制の高級割烹』という敷居を下げ、地域の方々やドライブ客が日常的に筑穂牛を購入できる場を提供しています。加工場が完成した2022年は、僕が最初に仕入れた子牛が出荷を迎えるタイミングだったため、ギリギリで間に合わせることができました。
── さらに、EC(オンラインショップ)の構築にも取り組まれたとか。
直樹さん オンラインショップを開設し、全国のお取り寄せやギフト需要に対応できる体制を整えました。筑穂牛のすき焼き・しゃぶしゃぶ用肉、ステーキ肉をはじめ、特製だしや各種ギフトセットを販売しています。コロナ禍で来店が難しい遠方のお客さまや高価格帯の贈答需要を獲得することで、店舗の営業状況に左右されない安定した収益基盤を作ることが狙いでした。
── まさに「生産(肥育)→ 加工 → 直営販売(小売)→ 飲食店(料理提供・EC)」という『6次産業化』の完成ですね。
自社で生産精肉加工した商品を販売
「あかね荘」で味わう筑穂牛料理
── 会社とブランドの未来をかけて守り抜いた筑穂牛ですが、「あかね荘」でいただける料理について改めて教えてください。
直樹さん 筑穂牛の育成では、まず稲わらやイタリアンライグラスを中心にあたえてしっかりとした骨格を作ります。その後、段階的に配合飼料を増やしていくことで、良質な肉質を作っていきます。これが筑穂牛独特の深い味わいを生み出す秘訣です。また、筑紫平野と筑豊盆地の間に位置する三郡山系の清らかな伏流水を飲ませ、ストレスの少ない環境で丹念に育てることで、偏りのない美しい肉質に仕上げています。
── 料理人として、また生産者として、筑穂牛の魅力についてどう感じていらっしゃいますか?
直樹さん 焼いたときの香りの良さと、肉本来の濃い旨味が一番の魅力です。脂の融点が低いため体温でスーッと溶け、しつこさがなく胃もたれしにくいのが特徴です。「毎日食べても飽きない肉」を目指して一生懸命育てており、その目指す味が形になっている実感があります。
「あかね荘」では、筑穂牛の上質な味わいを堪能できるコース料理を提供されています。ステーキコース(5,550円)、牛しゃぶコース(5,120円)、すき焼きコース(5,550円)、牛しゃぶまたはすき焼き(要追加料金)とステーキを合わせたあかねコース(7,780円)、その他、宴会コース等があります。
ステーキコースより
ステーキコースより
牛しゃぶコースより
牛しゃぶコースより
すき焼きコースより
すき焼きコースより
まとめ
採算面での厳しさが指摘される畜産業にあえて挑戦し、見事に軌道に乗せることができた要因は、独自の「6次産業化」を構築できた点にあります。 通常、1次産業(生産)×2次産業(加工)×3次産業(販売・サービス)=6次産業化とされますが、「あかね荘」の場合は、飲食店という3次産業を起点に、生産(1次)や加工(2次)へと遡る「逆6次産業化」を達成しました。
「あかね荘」の取り組みは、単なる店舗の生き残りをかけた事業転換にとどまらず、地域の歴史的産業である「筑穂牛」を守り抜くという、地域愛に満ちた物語として非常に大きな価値を持つと思います。
1次産業に携わる事業者が自ら価格決定権を持ち、主体的な販売戦略を展開できる背景には、確固たるブランディングの力があると感じます。不景気やコスト高が続く現代において、どの業界も厳しい局面に立たされています。しかし、知恵を絞り、リスクを恐れず努力を重ねる人々は、必ず打開策を見出していきます。そしてそうした人々に共通するのは、単なる利潤追求ではなく、深い“愛”を持っていることだと思うのです。お客さまへの愛、地域への愛、家族や仕事への愛、そして社会をより良くしたいという情熱。地域と伝統を守るため挑戦を続ける3代目・井上直樹さんの取り組みを、今後も温かく応援していきたいと思います。
ジャンル:郷土料理、肉料理
住所:福岡県飯塚市山口611-2
電話番号:0948-72-0903
営業時間:17:00~22:00(昼営業は要相談)
定休日:不定休
席数:座敷50席
メニュー:ステーキコース:5,550円、牛しゃぶコース:5,120円、すき焼きコース:5,550円、あかねコース:7,780円 (※その他、宴会コース等もあり)
URL:https://hiizuru-akane.com/
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