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財津和夫、50年以上前の小田和正とシンクロするような思い出に触れる

ラジオ

TULIP・財津和夫が、時にはアマチュア時代の大切な思い出を語る『グランドメゾン プレゼンツ 財津和夫 虹の向こう側』。今回は、大人の恋の持論を語り、またデビュー前の全国アマチュアコンテストの思い出を振り返る。

詞は、映像が残るように書いた方が記憶に留まる

財津と同じ小学校の卒業生から、通っていた中学校では財津が作詞作曲をした「生徒会の歌」が歌い継がれている、とのお便りが届いた。
最初はその曲の事を忘れていたようだが、メッセージを読み進めるうちに徐々に思い出した財津、「生徒会の歌とは思っていなかったが、後でそういうネーミングをされたんでしょうね。あるいは通称かな」と語りながら、自分が作った歌詞の一部も蘇ってきたようだ。「詞は、映像が残るように書いた方が(記憶にも)残る」
番組で改めて調べたところ、財津の母校から分かれて新設された中学校の創立10周年を記念して、卒業生の同窓会が生徒会の歌として企画し、財津に楽曲制作を依頼したもの。2001年(平成13年)の創立10周年記念式典で発表された、生徒会の歌「忘れないでおこう」は今も歌い継がれており、お話を伺った教頭先生もすぐに口ずさんで頂きました。(概要は、その中学校のホームページにも掲載されています。)

大人の恋? 老いらくの恋?

ろくな恋愛経験もなくお見合いで結婚したせいか大人の恋に憧れる、というリスナーのお便りへ財津が言葉を添える。
「70代、80代になってもそりゃあ恋はするでしょう。恋をすることで自分の生命維持装置が外されてないんだな、と感じるんですよね。そりゃあ、ありがたい事ですよ」
「人って、恋をして子孫繁栄するために生まれてきたわけですから。極端に言うと他の事は別に何もしなくても良い。あとはご飯を食べて、寝て、三大本能をやっていればいいんじゃないですか」
「恋は歳とってもした方が良い。むしろ無理やりした方が良いと思う。自分を鼓舞しながら」
・・・財津の恋愛論はいつも饒舌だが、ウィットに富んだ回り道も多いので、本論だけを拾っています。
続いての今日の一曲は、財津和夫「君の部屋のソファ」。1992年(平成4年)に発売された財津のソロアルバム「『もうひとつ』の愛」に収録されています。

小田和正と似たようなことを考えていた

昭和40年代に開催されたライトミュージックコンテストは、のちにプロとなった五つの赤い風船や吉田拓郎なども出場し、当時のアマチュア音楽界のムーブメントとなっている。財津が出場した第3回のコンテスト(1969年)では、財津のライバルとして赤い鳥やオフコース等々の面々と、全国大会の場でしのぎを削っている。
そのコンテストから10数年経ち、既に第一線のプロとなったオフコースの小田和正と鈴木康博が当時の事を語っている約40年前の記事の切り抜きをリスナーが送ってくれた。
「強敵は他にもいた。財津和夫(現TULIP)の率いるフォーシンガーズも良くまとまっていて、かなりの実力の持ち主と見た。トップは赤い鳥、まずこれは間違いないよなぁ。フォーシンガーズはおそらく2位に来ると思うよ。そうなると、俺たちは3位に入っていないとやばいって事か」
財津はこの記事の内容を初めて知った、と言う。「(小田の言う事が)誤解にしても錯覚にしても嬉しいな。オフコースは2位になったけど、1位になってもおかしくなかったという感じでした。本当にそれほどすごかったし、自分たちが入賞もしなかったのは当たり前の話だ、とコンテストの直後に思いました」
フォーシンガーズがおそらく2位だろうと思った、との小田の言葉に財津は、「他のバンドとバンド名を間違えたのか、それか小田サマの耳が悪いかのどちらか」と照れ隠して茶化すのでした。
「すごかったですよ、第3回ライトミュージックコンテストは、一生の思い出。僕の思い出の中でも1位2位を争います」
またじっくり話を聞かせてください、との武田アナのお願いに、是非お話しさせてください、と答える財津。改めて番組の中で詳細を語って頂くこととしましょう。

次回の放送4月16日も、通常通り18時15分(午後6時15分)から。
「チャップリン」と財津和夫の不思議な関係についてお話しします。

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