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法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#7

スガモプリズンで1950年に命を絶たれた藤中松雄。死後70年が過ぎて、遺族のもとに研究者から写真が送られてきた。松雄が戦犯として裁かれた横浜軍事法廷の写真。被告人席にずらりと並ぶ元日本兵の中に父がいるのを、松雄の長男が確認した。写真が収蔵されているのはアメリカの国立公文書館。写真の裏には撮影されている人の名前が記されたキャプションが貼られているが、そこに松雄の名前はなかった―。 

死後70年経って初めて見た法廷での“父の姿”

横浜裁判の法廷(米国立公文書館所蔵)

 

 

藤中松雄の遺書を収蔵する嘉麻市碓井平和祈念館(福岡県)の学芸員、青山英子さんから貴重な情報をもらった。日本大学の高澤弘明さんという研究者から、藤中さんの写真ではないかという問い合わせが藤中家にあったというのだ。松雄の次男、孝幸さんにその写真を見せてもらった。法廷で撮影された囚人服姿の若者の写真が数枚。孝幸さんはそのうち、日本人の弁護人の後方に二列に渡って10人ばかりの元日本兵が並んで座っている写真を取り上げた。

 

写真を見る松雄の次男・孝幸さん

 

 

次男・孝幸さん「はじめ見たとき、わからんやったけどですね。兄貴がみつけたんよ。しょっぱな見た時から『これおやじ』ってすぐわかったですもんね。」

「石垣島事件」は戦犯法廷開始以来の大量公判

法廷での藤中松雄

 

 

法廷の奥の列、左から三番目に座っている坊主頭で涼しげな目をした青年。写真が撮影されたのは、1947年12月3日。松雄が亡くなった時にまだ3歳だった孝幸さんは父の顔がわからなかったが、5歳年上の兄、孝一さんに写真をみせると、すぐに「これがおやじ」と指さしたという。松雄は当時26歳。スガモプリズンに収監されて5ヶ月後に裁判が始まって間もないころだ。石垣島事件で殺害された米兵は3人。それに対して米軍が横浜軍事法廷で裁くべく起訴した被告は46人だった。毎日新聞は小さな記事だが、1947年11月26日に「戦犯法廷開始以来の大量公判が開廷」と報じている。 

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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