「石垣島事件」とは?殺害されたのはいずれも20代の米兵だった~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#11
BC級戦犯として処刑された藤中松雄が関わった「石垣島事件」。殺害されたのは、米軍のグラマン機に搭乗していた3人の米兵だった。いずれも20代の若者。2001年、石垣島には3人を慰霊する碑が建立された。毎年、4月15日に慰霊祭が行われているが、島の人たちは「石垣島事件」についてあまり知らないという。
島では触れられない「石垣島事件」
金澤孝子さん「石垣島の人たちは、多分知っている人はそんなに多くはないかと思います。やっぱりあの当時、事件に関わっていたとか、身内の方がいらっしゃるというところもまだあると思うので、なんとなく触れてはいけないというところがあります。」
森口豁さんの著書「最後の学徒兵」では、石垣島事件で被告となった人のうち数人が取材に応じている。しかし本の出版から30年が経過し、ご存命の方はいないとのことだった。それでも地元では、事件に触れてはいけないという雰囲気があることに、戦犯とされた事実の重さを感じた。慰霊祭は、現在は孝子さんの兄が引き継いで続けている。コロナ禍で小規模にした年もあったが、多い年で25人程が集ったという。
金澤孝子さん「91歳で亡くなった父は、実際自分は戦地には行っていないですけど、大阪の軍需工場に行って空襲にあって命からがら逃げたっていう経験があって。あまり多くは語らなかったんですよ、戦争の事は。ものすごくしんどい思いをしているからしゃべれないんだと思うんですね。私たちの子供にはそういう思いは絶対させたくない。だから、こういう石垣島事件のような戦争がもたらした悲劇を、昔こういうことがあったんだよって、ちゃんとつないでいこうと思っています。」
慰霊碑がある公園は、そこで何かが起きた場所ではなかったが、事件を語り継ぐきっかけとなる場所だった。10月とはいえ、燦々と明るい日差しが降り注ぐこの島で何が起きたのか。ここから「石垣島事件」の現地取材が始まった。
(10月13日公開のエピソード12に続く)
*本エピソードは第11話です。
【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
もっと見る1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。