石垣島はもはや過去の歴史の舞台ではない~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#19
1945年4月に米兵捕虜3人が日本海軍によって殺害された「石垣島事件」。当時、石垣島はどんな状況だったのか。ジャーナリストの森口豁さんに古くからのご友人を紹介してもらった。画家の潮平(しおひら)正道さん。空襲の様子や疎開先でマラリアに罹患して亡くなる大量の人たちを見たという。
石垣島への空襲は
2020年10月、石垣島事件が起きた当時の状況をお聞きするために、潮平正道さん(当時87歳)のご自宅を訪ねた。
「これが階段で、地下室ね。地下室のなかに参謀室があったりして」
潮平さんは、終戦時12歳。初めてアメリカの飛行機が飛来して、竹富島の横にいた日本の軍艦が攻撃を受ける様子を目の当たりにしたという。空襲の回数が増えていく中、飛行場への爆撃も目撃した。
「石垣島ですからね、アスファルトもなにもないでしょ。それで漁民を動員して、島の周辺にある珊瑚を割って焼くんですね。すると石灰になる。それを練って、アスファルト代わりに滑走路に撒いた。すると真っ白な滑走路が敵に見えるでしょ。そしたらその白い滑走路に芝生を植えるって言ってね、滑走路の周辺にある草を根っこからとってきて、その草を植えて。生えるわけないですよ。その作業をしているときに空襲があって、1機は燃えました」
石垣島では連合軍からの空襲で110人が亡くなっている。しかし、もっと多くの人の命を奪ったのは、「戦争マラリア」だった。
マラリアで2500人が亡くなった
石垣島では日本軍が住民達を山に強制疎開させた。そこでマラリアが蔓延し、多くの死者が出た。石垣島でのマラリアによる死者は約2500人。
(潮平正道さん)
「疎開先の山から帰ってきて、父がマラリアを発病した。そして私も。もう私が発病しているときは町中みんな患者だらけ。私の家から200メートルくらいのところに火葬場があったんですよ。毎日朝から夜中まで、死者の列が出来ていました」
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。