取り調べでは「虚偽の供述」強要も~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#20
スガモプリズンに収容されていた人たちが、1952年5月12日に出版した「戦犯裁判の実相」という書物がある。戦犯に問われた人たちが、自らが関わった事件や裁判について、記録を残そうと製作したものだ。1981年に復刻発行されている。この書物から石垣島事件の被告たちの取り調べ状況が明らかになった―。
目次
「戦犯裁判の実相」取り調べ状況は…
「戦犯裁判の実相」の冒頭、獄中歌が掲載されている。
“四十一人次々に 絞首刑を受けければ 遂に泣き伏す女弁護士”
石垣島事件でBC級戦犯に問われた、石垣島警備隊迫撃砲隊の二等兵曹が詠んだ句だ。横浜裁判の再審査資料によると、1949年1月当時25歳。前年の3月、石垣島事件の判決で41人の被告が絞首刑を宣告されていく中で、アメリカ人の弁護人、ブリーフィールド女史が取り乱した様子を歌にしたという。二等兵曹は佐賀県の農家出身。妻と3人の娘がいた。スガモプリズンに収監される前、福岡での取り調べの様子も書いている。
顔を殴られ、首を締め付けられた
(二等兵曹:第一回取り調べ)
「私は昭和22年(1947年)2月上旬、博多で3日間、米軍調査官ダイヤーと通訳山田から取り調べを受けた。事件は戦時中石垣島で起こった米軍俘虜3名の処刑のことである。私は処刑現場には居たが、処刑には参加して居なかったのでその旨を述べたところ、二人は、『君は嘘を言っている。銃剣で俘虜を刺突した筈だ』と云って顔を殴りつけ、壁に押しつけて首を締めつけた。こんなことを何回となく繰り返したが、残念なことにはその取り調べ場所は外に誰ひとり居ない2階なので何の証拠もなく、裁判の時、拷問を受けたことを軍法委員に述べたが取り上げられなかった」(「戦犯裁判の実相」巣鴨法務委員会編1952年)
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。