PageTopButton

これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#24

撃墜されたグラマン機の搭乗員を殺害したとして、BC級戦犯に問われた藤中松雄。「石垣島事件」で死刑になった松雄の取り調べ段階でとられた陳述書には、「命令ではなく自発的に刺した」と書いてあった。しかし、その陳述書には、小さな字で「命令あった」とも書き込まれていた。さらに国立公文書館のファイルには、主任弁護人に宛てた松雄の文書もあった。そこに書かれていたのは-。

「主任弁護士ほか一同様」

藤中松雄が書いた弁護人宛の文書(国立公文書館所蔵)

 

「主任弁護士ほか一同様 藤中松雄」から始まる文書は、全部で6枚。国立公文書館で公開されているのはコピーなので、元の文書の紙質などはわからないのだが、左上に「NO.」を書き入れるところがあるので、縦書きの便箋を横にして書かれているようだ。弁護人に訴えるような口調で記されている。

(藤中松雄の文書)
福岡にての口述書は、警務所内で榎本さん(中尉)の打ち萎れた姿を見て人情にからまれて榎本中尉から命令された事を書かずに出しましたが、次に私は神に誓い、真実を記します。

「私は神に誓い否定します」

(松雄の文書)
別紙に申し上げました様に、私は搭乗員が柱に縛られて、士官の人が殴っているのを見て、気を失ったような気持ちで何が何だか分からず、ただ、ぼーっと見ている時、「オイ、突け」という狂気の如き怒声で、突然の命令で、全く無意思で行動したのであります。

当時、日本軍隊の軍紀厳正な多勢いる将校の前で、勝手な行動は絶対ゆるされず、必ず真実は、現場にいた人が知っています。

捕虜を私が殴るなど、心外で絶対無く、私が自動車に乗った時は、搭乗員(捕虜)が乗っている事も知らず、前島中尉の命令で私が車に乗る時は、10名ほど乗っていました。
私は乗ってすぐ、搭乗員も乗っているのを見ましたが、すぐ車は前進し、車上で人が殴っているのも見ず、知りません。車が止まると、下車の命令を受けて、車を降りて現場に行き、現場で捕虜を殴っているのを見ました。私が殴っていない事は護送した番兵が知っていると思います。私は神に誓い否定します。

搭乗員3名を本部に連れてきた

松雄の文書「神に誓い否定します」(国立公文書館所蔵)


前回、紹介した松雄の陳述書でも、松雄は捕虜を殴ったという罪状項目を否定していたが、この文書でも「神に誓い」殴ったことを否定している。また、すべて命令通りであったことを強調している。
そして、事件当日見聞きしたことについて、さらに細かく書いている。

(松雄の文書)
昭和24年4月15日と思います。私が看板士官である炭床兵曹長の指揮を受け、命令されて、作業員約10名と西飛行場付近の草原に兵舎偽装用の草を取りに行き、11時30分頃、兵舎に帰って兵員室で、「米軍機搭乗員が3名、落下傘で降りた」と話合っているのを聞きました。

午後も同じ作業に出て4時30分頃、兵舎に帰ると、「搭乗員3名を本部に連れてきた」と話していました。夕食後、5時40分頃と思います。

私が兵舎下の流水に洗濯に行きました時、上の方で司令と数名の士官が防空壕前で訊問しているのを見受けました。洗濯を終わり、兵員室に帰り、しばらくして小隊長である今村兵曹長が来て、「藤中兵曹、搭乗員を見て行くから来い」と命じられ、成迫先任下士官と隊長に連れられて防空壕に見に行きましたが、搭乗員3名は別々の壕の中に入っていて、白い布で目隠しをしていた様に思われましたが、壕の中は暗くて良く見えませんでした。壕の前には番兵が立っていました。隊長に伴われて一回り見て兵舎に帰りました。

この記事はいかがでしたか?
リアクションで支援しよう

この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

もっと見る