「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#27
1948年3月16日。横浜軍事法廷で、石垣島事件でBC級戦犯に問われた元日本兵たちに、判決が宣告された。結果は41人に死刑。弁護人のうち、アメリカ人の女性弁護士は泣き伏したという。この状況を日本人の弁護人はどうみたのか。金井重夫弁護士が意見書を遺していた―。
目次
石垣島事件の判決に関する意見
国立公文書館のファイルの中にあった、「石垣島事件の判決関する意見」という文書。名前代わりに「金井」の印鑑が押してある。東京都在住の金井重夫弁護士だ。「日本政府」の文字が入った用紙に書かれている。
(注・わかりにくいところは一部表現を変えた)
証拠隠滅は国民全部の共同責任
(石垣島事件の判決関する意見)
昭和20年(1945年)4月半ば頃、石垣島警備隊が、同島を空襲して捕えられた連合軍の飛行機搭乗員3名を逮捕し、その日の夜11時頃、同隊員の手により殺害した。殺害するにあたり、内2名は士官2名が斬首し、他の1名は多数の士官、下士官及び兵が、銃剣で突刺した。それに加えて、終戦後この死体を発掘し火葬に附し、骨を海中に投棄して証拠の隠滅をはかったことは事実であり、この事実が国際法規に違反し非難せられねばならぬものであることについては、何人も異存は無い。我々としては、それを単に関係者のみの責任と考えず、国民全部の共同の責任と考え、被告人と共に深く反省、悔悟している。
石垣島事件では、証拠隠滅のために、戦後になって遺体を掘り起こして燃やした上、海に投棄している。それについて金井弁護士は、「国民全部の共同の責任と考える」と述べ、自らも反省、悔悟している。
裁判の型式を借りた報復
(石垣島事件の判決関する意見)
問題は、この犯行が如何なる状況の下に行われたか、何人により提案、決定され、何人によって行われたか。(搭乗員を)殴った者は如何なる事情で、如何なる心意を以て、殴るに至ったのか。又、各関係者の責任の有無程度は、如何であらねばならぬのかという点にある。
本事件の判決は、昭和23年(1948年)3月16日言い渡されたが、それによると、45名(他に1名起訴されているが病気の為分離)うち2名は無罪、2名は重労働(1名20年、1名5年)となったが、他の41名は絞首刑であった。それは無罪者2名を除けば、検察官の主張が全面的に認められ、被告人自身の公判までにおける自由意志に基づく供述、及び、これに基づく弁護人の主張は、全く無視されたことを意味する。
結果から見れば約3ヶ月半に亘る審理は、ほとんど無かったに等しい。我々としては、被告人及びその家族と共に、色々な点でこの裁判には到底納得することができない。それは裁判ではなく、裁判の型式を借りた報復であると考えられてもやむを得ないもので、米軍の軍事裁判の権威及び名誉の為にも十分検討されねばならぬと考える。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。