「裁判の型式を借りた報復」弁護人が判決に対して意見したこと~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#27
1948年3月16日。横浜軍事法廷で、石垣島事件でBC級戦犯に問われた元日本兵たちに、判決が宣告された。結果は41人に死刑。弁護人のうち、アメリカ人の女性弁護士は泣き伏したという。この状況を日本人の弁護人はどうみたのか。金井重夫弁護士が意見書を遺していた―。
目次
日本はジュネーブ条約を「準用」
金井弁護士は、被告人たち、特に下士官や兵らは、捕虜の待遇についてそもそも無知であり、違法性を認識していなかったことを指摘している。
国際条約の「俘虜の待遇に関する条約」は1929年にスイスのジュネーブで調印されたことから、「ジュネーブ条約」と呼ばれているが、日本は批准していなかった。太平洋戦争開戦後、日本と敵国の双方で捕虜が発生するようになると、敵国からジュネーブ条約を適用する意思があるかどうかの照会があり、それに対して日本は1942年、「準用」すると回答した。「準用」とは、必要な修正を加えて適用するという趣旨だったが、戦犯裁判では「準用」は「事実上の適用」と解釈されている。石垣島警備隊にいた多くの兵士たちは、「捕虜を虐待してはならない」ということもつゆ知らず、ついさっきまで空襲され、交戦状態だった米軍機の搭乗員を殺害することが「違法である」などという認識は、全く無かったのである。
ふるさと、福岡から連行される藤中松雄が、家族に「直ぐ帰ってくるから大丈夫」と言ったのも、金井弁護士が指摘している「違法性を認識していなかった」からかもしれない―。
(エピソード28に続く)
*本エピソードは第27話です。
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【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
もっと見る1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。