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「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#34

裁判直前の“方向転換”

石垣島事件の法廷 傍聴席に座る被告たち(米国立公文書館所蔵)

 

井上司令がスガモプリズンに入所したのは1947年1月20日と、石垣島事件の誰よりも早い。死刑執行された他の被告の入所日は、幕田大尉と田口少尉は3月中旬、副長の井上勝太郎と成迫上等兵曹が6月30日、榎本中尉と藤中松雄は7月初旬だ。GHQへの投書から発覚したという事件なので、まずトップの司令から捜査が始まったということなのだろう。戦犯裁判はその年の11月26日から始まった。起訴状は各々10月には出されているようなので、まさに裁判が始まる直前に、井上司令は「方向転換」したことになる。

(元上等水兵の面接調書 1967年)
「いよいよ裁判になる前までは、井上司令は検察側に対して『自分は連日部隊の視察に行っており、本部に居らず、事件の事は何も知らない。兵隊が勝手にやったことだ、命令した覚えはない』との主旨を主張しており、検察側はこの司令の証言を楯に『共同謀議罪』として一蓮托生に処刑することを画策していたため、成迫上等兵曹が日本軍隊における命令、服従関係を主張した」

司令が弁護人に宛てた文書

国立公文書館 (東京都千代田区)

 

一方、同じく国立公文書館に収蔵されている資料の中に、「方向転換」した井上司令の具体的な主張と、その時期がわかるものがあった。弁護人の手元にあったと思われる文書だ。公文書館の資料は、提供されたもの一式をまとめてファイルに入れたようなもので、それぞれの文書が何なのか、ラベルがあるわけでも、注釈がついているわけでもない。しかも、被告人は全部アルファベットで、実名は隠されている。

本籍地や階級などがわかる名簿や写真のキャプションなどから、どのアルファベットが誰かを割り出して、井上乙彦司令が被告人「A」であることが判明したので、「A」の資料を探していくと、弁護人の尾畑義純氏に返答と書かれた文書を見つけた。

弁護団との「命令陳述」打ち合わせ

「尾畑氏に返答」の文書(国立公文書館所蔵)

 

日付は1月15日。尾畑氏に返答、書いてある。見出しは「司令処刑命令陳述骨子」だ。

<1月15日 司令処刑命令陳述骨子>
1,幕田大尉 バンナ本部に呼び、司令より斬首を命令した 時刻 日没前後
2,田口少尉 バンナ本部士官室で斬首を命じた 夕食後、時刻ははっきり記憶せず
3,甲板士官 甲板士官及び藤中ら下士官約20名の刺殺処刑者に命令
4,前島中尉 処刑場準備は18時半頃 前島中尉に命じ、榎本は甲板士官として援助す
      警戒及俘虜護送を命ず
5,処刑は18時30分頃、司令決意す
6,その他 本件に葬する命令は記憶せず

このうち、3の「甲板士官及び下士官約20名に刺殺命令」という部分には、大きく「?」の文字が記載されている。

 

「司令処刑命令陳述骨子」中の「?」の書き込み(国立公文書館所蔵)


さらに国立公文書館には、井上司令が捕虜を処刑する決断に至った、詳細な理由がわかる文書があったー。
(エピソード35に続く)

*本エピソードは第34話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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