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毎日新聞社

佐世保小6殺害事件から20年…家族のケアを担当した新聞記者が回顧

潟永秀一郎

radikoで聴く

2004年6月1日に長崎県佐世保市で起きた小6女児同級生殺害事件から20年。被害女児の父親・御手洗恭二さんの同僚だった、元サンデー毎日編集長・潟永秀一郎さんが、6月21日に出演したRKBラジオ『立川生志 金サイト』で、初めて当時のことを振り返った。

御手洗さんの承諾を得て初めて語る「あの日からのこと」

もう20年になるんですね。私にはまだ気持ちが整理しきれていないところがあって、今年の命日、毎日新聞の朝刊に大きく、被害者の父である先輩、御手洗恭二さんのインタビュー記事が載っているのを見て、「そうかぁ、もう20年も経つのか」と思ったくらいです。

整理できなかった遺品 残された家族守った父 佐世保同級生殺害20年(毎日新聞)
https://mainichi.jp/articles/20240531/k00/00m/040/091000c

すぐに御手洗さんに電話をして話し込んで、切った後また妻と話し込んで、その時はラジオでお話しすることなど考えもしなかったんですが、後から「20年の節目が最後と思って、毎日新聞の後輩記者の取材だけは受けたんだ」と御手洗さんが話していたのを思い出して、私も今回一度きりお話ししようかと、きのう御手洗さんに話したら「全然気にしなくていいよ。20年経ったんだから」と。

だから、私にとっても一つの区切りのつもりで(と言っても、一生『区切り』なんてないんですが)、お話しします。断片的な記憶なので不正確なところもあるかもしれませんが、お許しください。

家族ぐるみの付き合いがあった先輩記者のもとへ

当時、御手洗さんは毎日新聞の佐世保支局長、私は福岡本部のデスクでした。午後1時過ぎだったと思います。御手洗さんから多分、小倉(北九州市)の西部本社に、長女・怜美(さとみ)ちゃんが事件に巻き込まれて亡くなった旨の電話があったらしく、「至急、会社に戻れ」という連絡を受けて帰ると、そのまま会社の車で佐世保に向かうよう指示されました。

何が起きたのかよく分からないまま、現地に向かう車中の電話で少しずつ状況を知り、私も混乱しました。ただ、はっきり覚えているのは、当時の編集局長が「お前は取材を一切しなくていい。御手洗のそばにいて支えろ」「御手洗を死なすな」と、繰り返したことです。局長は御手洗さんが新人記者当時に支局のキャップで、兄のような存在だったからだと思います。

私も御手洗さんとは若い頃からの付き合いで、長崎支局勤務当時はデスクとキャップという間柄でした。家も近所で、忙しい時は2人とも帰りが遅くなりますから、御手洗さんのところは奥さんと子ども3人、うちは妻と子ども2人、どちらも父親抜きの計7人で一緒に晩ご飯を食べるような、そんな家族ぐるみの付き合いでした。

だから会社から刻一刻の連絡を受けても、「間違いであってほしい」と願う脳が理解を拒むというか、現実感がありませんでした。局長はそんな私の状況を読んで、「御手洗を死なすな」と強い口調で言ったのでしょう。ハッと目が覚めたのを覚えています。

3年前に妻を亡くし…「御手洗を死なすな」

実は、局長が御手洗さんを「死なすな」と言ったのには、事件とは別の事情もありました。御手洗さんはこの3年前、奥さんも病気で亡くし、憔悴しきった御手洗さんを支えたのが子どもたちだったからです。

それは父親としての責任感もそうですが、むしろ本当に子どもたちがお父さんを励まし元気づけ、御手洗さんが「どっちが大人か分らんな」と苦笑いするほどでした。末っ子の一人娘だったさっちゃんまで育て上げることが、当時の御手洗さんのただ一つの人生の目標で、きっと奥さんにも誓ったはずだからです。

佐世保に向かう車中から御手洗さんに連絡し、家とは離れた、とある施設で落ち合いました。佐世保支局は小さなビルで、2階が支局、3階が支局長住宅という造り。しかも隣は、各社の取材拠点となっている佐世保警察署ですから、自宅に帰れば混乱が続くのは必至で、二男(さっちゃんのお兄ちゃん)や支局まで巻き込んでしまう。

父親として、支局長として、それは避けたいという思いと、帰ってくるさっちゃんをせめて静かに休ませてあげたいという思い――御手洗さんの意向を確認して、長崎県内の別の市にあった奥さんの実家に、御手洗さんと二男は当面、移ってもらうことにしました。

御手洗さんの同期入社で親しい高原克之さんも合流して、警察など外部対応は2人が窓口になると決め、県警にもその旨と居所を伝え、司法解剖を終えたさっちゃんのご遺体は、私が引き取りに行きました。さっちゃんが帰ったのは深夜でした。

役割は「遺族のケア」取材・報道とは一線を引く

ここでいくつか触れておかなければならないことがあります。一つは、取材と遺族のケアと、毎日新聞は厳密に二つの役割を分けたということです。今お話しした通り、私は遺体を引き取ってさまざまな説明を受けましたが、そのことも含めて同僚記者に一切、遺族の代理として聞いたことは話しませんでした。

この事件報道が終わるまでずっと。御手洗さんも、高原さんも。きれいごとに聞こえるかもしれませんが、それはメディアとしてフェアではないという考えを、会社も御手洗さんも共有していました。おかげで、私と高原さんは御手洗さんらのケアと、さまざまな手続きの代行に専念できました。

犯罪被害者支援や「手記代読」のテストケースにも

もう一つは長崎県警の対応です。県警はこの5年前に「被害者対策推進要綱」を制定して被害者や遺族の支援に取り組みはじめ、ちょうどこの年の8月に「犯罪被害者支援室」を立ち上げる直前でした。これはのちに県警幹部に聞くのですが、まさにそのテストケースとなったそうで、遺族が何を望み、警察に何ができるのか、親身に相談に乗ってもらえました。また「この経験が、その後の被害者ケアに役立った」と言われたことが、かすかな光になったのを覚えています。

最後の一つは、取材する側だった私たちが、初めて被害者の立場になったということです。実は事件当日、御手洗さんがどうしても聞き入れてくれなかったことが、一つだけありました。記者会見です。「今は無理です」と必死に止めましたが、御手洗さんは「自分も取材をしてきた人間。被害者側になったからといって、逃げるわけにはいかない」と、聞きませんでした。そう話せば、記者の私たちが言い返せないと思ったのでしょう。

ただ今月1日のインタビュー記事で、御手洗さんは「(当時中学生と大学生だった)2人の息子に取材が及ぶのを避けたかった」と語っていて、こちらの思いが強かったでしょう。また、加害少女の供述などが明らかになった後、再度の会見要請はさすがに精神的に厳しいという医師の助言も受けて弁護士が止め、手記を書いて弁護士が代読しました。このやり方はその後、さまざまな事件で今も踏襲されています。

また、どうやって調べたのか、さっちゃんの葬儀の日、ある雑誌記者が奥さんの実家を張り込み、写真を撮られました。その後は急増です。事件以降、泣き通しだったおばあちゃんにも辛く、ご近所にも迷惑が及ぶため、ひっそりと佐世保に戻りました。御手洗さんの元には多くの手紙が届き、私たちが読んで差支えのないものだけ渡しました。中には新興宗教の誘いや中傷に近いものもあったからです。当時はまだSNSが普及する前でしたが、今ならこの比ではないでしょう。そんな被害者側の思いを、身をもって知った日々でした。

1か月間続いた「男4人の合宿生活」

その後、御手洗さんとお兄ちゃんは外に出ることもままならず、事件に伴う手続きや買い物などには高原さんと私が出て、家事は大人3人で分担しました。私は主に料理担当でした。本来、御手洗さんを見守ることが高原さんと私の務めでしたから、ずっと他愛のない話をしたり、御手洗さんが撮りためたスポーツのビデオをみんなで見たり。

どこか張り詰めながら、平穏を演じているような日々の、ある夜でした。御手洗さんがテープを選び間違えたのか、家族で撮ったビデオを再生し、生前のさっちゃんも映っていました。高原さんと私は慌てましたが、御手洗さんはあれこれ話しながら、しばらく見ていました。でも、御手洗さんも動揺していたと思います。その後はもう見ることはありませんでした。

けれど、一つ下の階では福岡からの応援記者も加わってごった返し、隣の警察署からは胸を刺すパトカーのサイレンが聞こえ、何よりお兄ちゃんが学校にも通えない生活はすぐに限界がきて、御手洗さんは転居を決めました。支局から離れた暮らしでようやく少しずつ日常を取り戻し、御手洗さんは「心配しなくていい。もう大丈夫だから」と、高原さんと私に帰るように言い、男4人の合宿生活は終わりました。事件から1か月余りが過ぎていました。

20年経って知った子供たちの“想い”

あれから20年。実は、私には一つ痛恨の思いがあります。下のお兄ちゃんのことです。事件直後からそばにいながら、当時中3だった彼の痛みには寄り添ってあげられなかったことを、当時佐世保支局員だった川名壮志記者の著書で知りました。今月2日、毎日新聞のインタビュー記事にもこうあります。

突然奪われた妹 講演する次兄の思いは 佐世保同級生殺害20年
https://mainichi.jp/articles/20240531/k00/00m/040/104000c

(事件発生後、中学校に)迎えに来た御手洗さんは顔色(かおいろ)を失い、別人のようだった。「父まで失うのではないか」。急に怖くなり、安心させるために父の前では笑顔でいようと決めた。その後は、できるだけ気丈に振る舞うように努めた。妹の同級生は心のケアが必要だとしてカウンセリングを受けるよう案内されたが、実の兄である自分には、そうした声はかからなかった。「周りの大人に腫れ物扱いされていたように感じた」

――その「大人」の一人が、私でした。実は昨日(6月20日)、当時のことを妻に聞く中で「あの日、私が佐世保に向かおうとしたとき、子どもたちも『一緒に行く』って聞かなかった。『あっちは大変だから残って』って言ったら、『〇〇(次兄)はどうするんだよ!』って。『大人ばっかりじゃないか』って。それで連れて行ったの」と。初めて聞きました。子どもたちが気付いていたことに、私は気づけなかった。いつか会って、ちゃんと謝らなければいけないと、心から思っています。

以上、あくまで私から見えていた事件当時をお話ししました。御手洗さんとお兄ちゃんの今の思いは、ぜひ毎日新聞デジタルでお読みください。ようやく最近、怜美ちゃんの遺品整理に手を付けられるようになった御手洗さんは、そのインタビューの中で「事件と自分との終着点は今も見えないが、息子2人の家族が穏やかに生活できれば、俺は幸せだ」と話しています。そう言えるための20年――だったのかもしれません。

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この記事を書いたひと

潟永秀一郎

1961年生まれ。85年に毎日新聞入社。北九州や福岡など福岡県内での記者経験が長く、生活報道部(東京)、長崎支局長などを経てサンデー毎日編集長。取材は事件や災害から、暮らし、芸能など幅広く、テレビ出演多数。毎日新聞の公式キャラクター「なるほドリ」の命名者。