2025年は戦後日本を代表する作家の一人、三島由紀夫が生まれてから100年という節目の年。著書の復刊やイベントなどが各地で行われています。この「三島由紀夫 生誕100年」をどう受け止め、またどんな意義があるのかについて、6月20日放送のRKBラジオ『立川生志 金サイト』に出演した、ジャーナリストで毎日新聞出版社長の山本修司さんがコメントしました。
「生誕100年」の意義と背景
5年前には「没後50年」があり、今年「生誕100年」。三島由紀夫についてさまざまなイベントを催すには、少し近すぎるのではないか、とある人から言われたことがあります。しかし、「没後50年」の2020年はコロナ禍まっただ中で、実際には大々的に催しを行う雰囲気ではなかったことを思い起こします。
だからというわけではありませんが、今年は昭和元年から100年目ということ、つまり三島の満年齢と昭和の歩みが一致し、三島の人生が昭和と併走したということもあり、また後に触れますがこの5年で世界が様変わりしたこともあり、ここで三島文学を、また三島という人間を振り返ってみよう、改めて捉え直してみようという動きが、文学界や出版界で出ています。
没後50年にあたる2020年3月20日には、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』というドキュメンタリー映画が公開され、私も見に行きました。その数日後に緊急事態宣言が発令されて上映が中止になったため、「早く観ておいてよかった」と思ったことをよく覚えています。
この映画は、1969年(昭和44年)5月13日に、東京大学駒場キャンパス900番教室で行われた三島由紀夫と東大全共闘の討論会を中心にしたもので、唯一中に入って取材していたTBSが撮影したフィルムを高精細映像として復元し、さらに芥正彦さんら元東大全共闘の錚々たる論客たちや、三島を研究して本にした平野啓一郎さんらに新たに取材したものでした。そのエネルギーのすごさ、豊かな知性、議論に圧倒されました。
その後の5年間には様々なことがありましたが、三島周辺での大きなことは、傑作の一つとされる長編小説『金閣寺』について、三島が原題を『人間病』などと構想していたことを示す編集者への手紙が昨年12月に見つかったことです。
この手紙は、文芸雑誌の『新潮』での連載が始まる前年の1955年6月に編集者に宛てて書かれたものとみられます。この中で小説のテーマについて「題は『人間病』(人間存在といふ病気の治療法について)あるひは『人間病院』といふのです」などと記していました。
『金閣寺』は実際に起きた放火事件を題材に、吃音によるコンプレックスを抱えつつも、金閣寺の美しさにとりつかれた芸術家である学僧の複雑な心理を描いた作品です。ここには「病を抱える存在である人間は、その病を芸術によって癒すことができるのか、また病を癒すことは人間にとって幸せなのか」という、深く簡単には理解できないテーマがあったということです。こんなことを手紙から窺うことができたわけで、生誕100年を前に大発見があったといえます。
三島由紀夫の思想と現代への示唆
また、三島は1970年(昭和45年)11月25日に、憲法改正、憲法第9条破棄のため自衛隊にクーデターを呼びかけた後、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺をしました。
その直前に「檄文」(バルコニーで演説した際にまかれたものですが)を託されたことで知られる、毎日新聞出版、当時は毎日新聞出版局が発行する『サンデー毎日』の記者で、のちに評論家となった徳岡孝夫さんが、今年4月に亡くなりました。
檄文とともに封筒の中には「同封の檄及び同志の写真は、警察の没収をおそれて、差上げるものですから、何卒うまく隠匿された上、自由に御発表下さい。檄は何卒、何卒、ノー・カットで御発表いただきたく存じます」と書かれていて、雑誌では『サンデー毎日』だけが全文を掲載したという経緯があります。
檄文は「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た」などという内容になっています。
これとは別に「果たし得ていない約束」というエッセーがあるのですが、これはとても有名なもので、割腹自殺する4か月ほど前に書かれたものです。私は実は、先ほど紹介した映画を観るまで、恥ずかしながら読んでいなかったのですが、これを読んで檄文の意味がよりよく分かったような気がしました。
エッセーには「私の中の二十五年間を考えると、その空虚さに今さらびっくりする。私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」と書かれていました。25年間というのは、戦後25年のことです。
三島は戦後の民主主義、戦後の社会を批判し、とりわけ、憲法上の矛盾を抱えた自衛隊のあり方、戦後「人間宣言」した天皇制のあり方について猛烈な批判をしてきました。こうしたことが檄文に書かれていたわけですが、このエッセーには300万人を超える人が亡くなっていながら、その敗戦を検証することもなく、平和を享受してきた日本社会を痛烈に批判した一方で、自らも作家として、自らの心境としては「のうのうと」その時代を生きたことに自己嫌悪を感じ、最終的に自衛隊に決起を迫りつつ命を絶ったわけです。
ここに私たちは恥ずかしさといいますか、私についていえばジャーナリズムに身を置くものとしてある種の後ろめたさを感じて、節目節目で三島を捉え直しているのだと改めて感じました。
ウクライナにロシアが侵攻したのが2022年2月、イスラエルにハマスが侵攻して、その後ガザへの攻撃へと激化したイスラエル戦争は2023年10月に始まりました。いずれもこの5年間に起きたことで、トランプの2期目政権が始まったのが、三島の100歳の誕生日の約1週間後です。今はイスラエルとイランが戦争状態になり、アメリカも関わろうとしています。世界もこの5年で大きく変わりました。
トランプ関税の問題、つまり経済については盛んに議論されても、こうした紛争にどう関与するのか、もし日本が侵略されたらどうするのか。誰が日本を守るのか、誰が戦うのかなどということについては、ほとんど議論にならないまま通常国会は終わろうとしており、7月に参院選を迎えます。
こうした状況をみれば、三島が批判した戦後社会の全体状況は全く変わっておらず、日本について言えば相変わらずの思考停止状態も続いているということができると思います。
私は三島の研究者でもありませんし、特別にファンだとも言えないのですが、それでもなお、三島の作品、檄文を読んでいまの時代を問うていること、また45歳で自決したことから自分の父親よりも年上であるにもかかわらず若々しく輝いているように感じることなど、その独特の存在感の大きさは際立っています。
生誕100年の今年、改めて三島作品に触れ、またイベントなどに参加しながら、社会のあり方を考えてみなければと思っているところです。そしてこれをリスナーの方々にも問いかけたいと思い、今回のテーマとしました。
この記事はいかがでしたか?
リアクションで支援しよう
この記事を書いたひと

山本修司
1962年大分県別府市出身。86年に毎日新聞入社。東京本社社会部長・西部本社編集局長を経て、19年にはオリンピック・パラリンピック室長に就任。22年から西部本社代表、24年から毎日新聞出版・代表取締役社長。