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去年12月、沖縄本島内で16歳未満の少女を誘拐し性的暴行を加えたとされる米空軍兵の初公判が、7月12日午後、那覇地裁で開かれる。同日朝、RKBラジオ『立川生志 金サイト』に出演した、元サンデー毎日編集長・潟永秀一郎さんが、沖縄で相次ぐ「アメリカ兵による女性暴行事件」と、それを公表しなかった政府の対応について「忘れてはいけない、根深い問題」とコメントした。
「地元は蚊帳の外」日米の通報体制が形骸化
経緯を振り返ります。最初に発覚したのは、去年の12月に沖縄のアメリカ空軍に所属する25歳の兵士が、公園で16歳未満の少女に声をかけ、自宅に連れ込んだうえ、性的暴行をしたとされる事件です。家族から通報を受けた県警は、防犯カメラの映像から容疑者を特定して今年3月11日に書類送検し、那覇地検は3月27日に起訴しました。
ところが、これが明るみに出たのは、それから3か月近くたった6月25日。地元の民放が報じて、県が外務省に確認したところ、外務省は既に米兵が起訴された日、駐日大使に抗議していたことが分かりました。地元は蚊帳の外です。
沖縄では1995年9月、3人の米兵が小学生の女児を拉致して性的暴行をするという痛ましい事件が起きて県民の怒りが爆発し、大規模な抗議集会が開かれました。その後、容疑者の身柄引き渡しなどについて日米地位協定の運用が一部見直されたほか、沖縄で公共の安全に影響を及ぼす可能性のある事件が起きた場合、地元に情報を伝える経路も定められました。
しかし今回、情報は政府レベルでとどめられ、地元には一切伝えられませんでした。沖縄県の玉城デニー知事は「信頼関係において著しく不信を招くものでしかない」と憤りましたが、発覚の翌日に会見した外務省の報道官は「常に関係各所への連絡通報が必要であるという風には考えていない」と述べ、問題はないとの認識を示しました。理由は「被害者のプライバシー保護」です。
事件を明らかにできない「タイミング」があった?
ただ、この説明には各方面から疑義が示されました。「政府には、事件が明るみに出たら困る、別の理由があったのではないか」と。それは時期的な問題でした。
まずは、事件が起きた昨年12月です。米軍普天間飛行場の辺野古移設を巡り、国は月末に知事に代わって工事を承認する「代執行」を行いました。知事は岸田首相との面談を求めましたが実現しないまま、年明け1月に着工し、知事は「民意を軽視している」と強く反発していました。
次に、起訴された3月末です。首相は4月8日から国賓待遇でアメリカを訪問し、首脳会談や議会での演説が予定されていました。まさに外務省マター、しかも最重要案件で、起訴はその直前というタイミングでした。
政府側は隠蔽の意図を否定しましたが、私には「さもありなん」と腑に落ちる話でした。さらに5月には、アメリカのエマニュエル駐日大使が、台湾に近い日本最西端の与那国島を初めて訪れ、「戦争を防ぐいちばんの方法は確かな抑止力だ」と日米同盟の重要性を訴えるセレモニーがありましたが、もし事件が発覚していたら実現しなかったかもしれません。政府、とりわけ外務省にとって、95年の事件を想起させる今回の少女暴行事件が、最悪のタイミングだったのは間違いないからです。
県民に疑念を抱かせたのは政府の失態
一方で、事件発覚2日後の6月27日、県議会議員らが外務省沖縄事務所を訪ねて、県に情報提供がなかった理由を質した際、副所長は「外務省独自の判断で(情報を)出したり出さなかったりということはできる立場にない」と“政府の判断”を示唆し、後に外務省は容疑者の起訴前に、官邸とは情報共有していたことを認めました。
であれば、さらに浮かび上がるタイミングがあって、一つは6月16日に投開票された沖縄県議会議員選挙です。自民党や公明党、維新の会などで過半数を獲得し、立憲民主や共産など知事与党が少数派に転落する結果となりました。
立憲民主の岡田哲也幹事長は「(県議選前の公表には)外から(政治的な)力が加わったのかもしれない」との見方を示し、県民からも「事件を知っていれば結果は違ったかもしれない」という声が上がりました。私は、これが最初から非公表の理由だったとは思っていませんが、結果論であっても、県民にそういう疑念を抱かせること自体、政府の失態だと思います。
また、もう一つは6月23日の沖縄慰霊の日です。毎年、糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれる「沖縄全戦没者追悼式」には首相も参列し、追悼の言葉を述べますが、その前に事件が明るみに出るのはまずい、という判断が官邸になかったのか。「裁判は7月だから、政府としては非公表を貫こう」と考えても不思議はないと、私は思います。
情報共有されれば「2件目は防げた可能性」
それでも隠蔽の意図を否定し、被害者保護を理由に「問題はない」としていた政府側が、ある意味、態度を一変せざるを得なくなったのが2件目の発覚でした。1件目が報じられた3日後の6月28日、地元紙が「5月にアメリカ海兵隊兵士が成人女性に性的暴行をしようとしてけがをさせ、6月17日に起訴されていた」と報じた件です。この事件も、県には一切連絡がありませんでした。
これがなぜ、政府にとって痛かったのか。それは「1件目の段階で地元に情報が共有され、再発防止策が取られていれば、2件目は防げた可能性がある」という主張が、一定の説得力を持つからです。1件目の発覚後、林官房長官は会見で「3月の起訴を受けて、直ちに外務次官から駐日大使に遺憾の意を伝え、綱紀粛正と再発防止の徹底を申し入れた」と言いましたが、そのわずか2か月後の再発は、政府間の形式的なやり取りが意味を成さなかったことになるからです。
玉木知事は「非人道的で卑劣な犯罪が再び発覚したことは、県民に強い不安を与えるだけではなく、女性の人権や尊厳もないがしろにするもので、断じて許せない。こういう状況がある意味、野放しにされているということは、もう遺憾の意を超えている」と怒りを露わにし、県に連絡がなかったことについて「日米で合意した通報手続きに基づいた情報提供の徹底について強く抗議していきたい」と訴えました。
これを受け、林官房長官や木原防衛大臣は会見で相次いで「アメリカ側に綱紀粛正と再発防止の徹底を申し入れた」と述べ、特に上川陽子外務大臣は「被害に遭われた方のことを思うと心が痛む。政府の対応に不信感を招いていることについて重く受け止めている」としたうえで、「地元との情報共有のあり方も検討する」と踏み込みました。そもそも一連の問題は外務省の責任が重いと、私は思っていますが、再発を防げなかったことについて、上川大臣は一人の女性として忸怩たる思いを抱いていると感じる発言でした。
不起訴になった3件も新たに公表
一方、林官房長官は今月3日の会見で、捜査当局が報道発表していない沖縄での米兵による性的暴行事件が2023年以降で新たに3件あると明らかにしました。今回の2件と合わせて計5件です。ただ、この3件はいずれも不起訴となった案件で、起訴された今回の2件とは、やや「非公表」の意味合いが異なります。
それを公表したのは、「また報道で明らかになれば隠蔽と言われる」という危機管理なのか、今回の2件、とりわけ去年12月に発生した少女暴行事件を地元に伝えなかったことが「決して特別ではない」と言いたいのか。私には、どうも後者の思惑が感じられます。政府には95年県民集会のトラウマがあって、被害者が少女の事件に焦点が当たるのを恐れたのではないか、と。まぁ、ひねくれ者の邪推かもしれませんが……。
結果として政府は今月5日、沖縄県内での米軍関係者による性暴力事件については、捜査当局が公表しないものでも、可能な範囲で政府側から自治体に情報を伝える運用に改めました。今回の2件の事件は、いずれも防衛省に情報が伝わっていなかったことが明らかになっていますが、新たな運用では捜査当局から外務省を経て防衛省と情報を共有し、防衛省から地元自治体に伝えるとしています。
また同じ日、沖縄県警も、米軍関係の性犯罪は、広報しない案件でも県にはできる限り情報提供すると、本部長から知事に伝えられました。林官房長官は「沖縄では、アメリカ軍人による犯罪予防の観点から、迅速に対応を検討する必要がある」と述べ、見直しの背景に今回の再発があったことを事実上認めました。
忘れてはならない「沖縄の現実」
ただ、それで良かった、とは、到底私は思えません。そもそも95年の事件を受けて、日米両政府は「公共の安全に影響を及ぼす可能性のある事件が起きた場合、沖縄防衛局を通じて県や市町村に連絡する」と決めていたのに、今回は守られなかったんです。30年という月日が教訓を忘れさせたのか、事件が明るみに出なかったら今もそのままだったのか、と考えると、かえって暗澹たる気持ちになります。
今年の「沖縄全戦没者追悼式」で、岸田首相は「今もなお、沖縄の皆様には、米軍基地の集中等による大きな負担を担っていただいています。政府として、このことを重く受け止め、負担の軽減に全力を尽くしてまいります」と述べましたが、2件の事件を知っていた首相は、どんな思いでこの言葉を語っていたのでしょう。
ただ、私自身、この2件の報道があるまで、正直、95年の事件も、その後も沖縄では米兵による性犯罪が相次いでいることも、考えることはありませんでした。その意味では五十歩百歩。2件を世に知らしめた地元メディアのジャーナリスト精神に敬意を表すると共に、今も「国土の0.6%しかない沖縄県に日本の米軍専用施設の約70%が集中している」現実を忘れてはならないと、あらためて突き付けられた思いです。私が「忘れてはいけないニュース」と言ったのは、そういう意味です。
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この記事を書いたひと
潟永秀一郎
1961年生まれ。85年に毎日新聞入社。北九州や福岡など福岡県内での記者経験が長く、生活報道部(東京)、長崎支局長などを経てサンデー毎日編集長。取材は事件や災害から、暮らし、芸能など幅広く、テレビ出演多数。毎日新聞の公式キャラクター「なるほドリ」の命名者。