県庁所在地と名前が違う県は「“賊軍”の藩が多い」説は本当か?
目次
戊辰戦争で「官軍」を名乗って勝利した、明治新政府。維新の中心となった藩の名は今も県名に残り、「賊軍」側では岩手県盛岡市など藩とは違う名前にされた、という説がある。群馬県に生まれ「賊軍」の末裔を自覚しているという、RKB毎日放送の神戸金史解説委員長が、11月19日放送のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で検証した。
映画『十一人の賊軍』が快走中
映画『十一人の賊軍』がヒット中です。主演は、駕籠かきの政を演じる山田孝之さんと、新発田藩(新潟県)の剣士・鷲尾兵士郎を演じた仲野太賀さん。2人ともすばらしかったです。右往左往する家老(阿部サダヲ)など、脇役もよくて、何よりストーリーの設定が面白いのです。
ここに出てくる「賊軍」という言葉を考えてみます。戊辰戦争(1868~69年)は、鳥羽・伏見の戦いに始まり、江戸開城、上野戦争、会津戦争、五稜郭の戦いと続く内戦です。日本人同士が殺し合わなければならなくなってしまったのです。
明治新政府軍は錦の御旗を掲げて、天皇の軍隊「官軍」を名乗りました。従わない藩を「賊軍」、天皇の敵である「朝敵」と位置づけ、戦っていきます。
最も「官軍」から狙われたのは、京都守護職に就いて、治安を維持した会津藩(現在の福島県西部)。当時の14代将軍徳川家茂や孝明天皇からも強く信頼されていた会津藩ですが、天下が変わっていく中で、「官軍」から敵視されます。会津など東北や新潟の諸藩が結成したのが「列藩同盟」で、新政府軍との戦いとなっていきます。
新潟の長岡藩、福島の会津藩を新政府軍が猛攻撃しましたが、この映画では長岡まで攻め込んできた「北越戦争」が描かれます。
ところで、私が生まれた群馬県には小さな藩がたくさんありましたが、私が生まれたのは幕府直轄領でした。祖父の祖父が明治20年に書いた日記を読んだことがあります。そこには一切「維新」という言葉が使われておらず、「御公儀瓦解の折……」と書いてありました。
公儀とは江戸幕府のことです。完全に徳川側の視点で書かれていていました。私は幼いころから維新の志士が好きで、歴史の本が好きになり、大学で日本史学を勉強していたのですが、実家が「賊軍」、つまり殺された側であったということに気づいて、がく然としました。
「賊軍」藩名を採用しなかった明治政府
明治になって、廃藩置県(1871年)が行われ、3府(東京・大阪・京都)と302県が置かれます。261の藩はすべて県に変わりました。お殿様はそのままトップ(知藩事)になるのですが、すぐに全員が首を切られ、一気に72県まで減らされ統合していきます。この廃藩置県こそが、明治維新の一番すごいことなんです。権力構造ががらりと変わっていきます。
明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、宮武外骨が1941年に出した『府藩県制史』という本には、こう書いてあります。新政府軍に忠勤を励んだ大藩がある県には藩の名を付けていますが、錦の御旗に刃向った“朝敵藩”や、日和見であいまいな態度だった“曖昧藩”の地域では、県名には藩名をつけず、郡・山・川の名を県名としたのだそうです。
※注:宮武外骨は、「其府県の名称に斯くまで順逆を表示した史実の存することを、何人も知らずに、ここ七十年を過して来たのは実に迂潤の次第であった、これも国体明徴の史実として、早速小学校の教科書にも入れねばならぬ程の事であろう」と書いています(『府藩県制史』94ページ)。
西日本に多い“忠勤藩”はすべて県名に
白地図に、書き込んでみました。北海道(蝦夷地)と沖縄(琉球国)を除き、県名と県庁所在地の名前が違うのは、島根県(松江市)、岩手県(盛岡市)、私の故郷の群馬県(前橋市)など15県あります。
ただ、栃木県(宇都宮市)と山梨県(甲府市)、滋賀県(大津市)の3県は、小さい藩がたくさんあって、県名が賊軍によるものかどうか、判別は困難と言います(ジャーナリスト・半藤一利さんの見解)。
明治維新に功績があった大きな藩、“忠勤藩”とされているのは9つ。秋田を除いて西日本に集中しています。確かにどの県名も藩の名前と一致していました。
【忠勤藩 9藩】
鹿児島藩→薩摩国に鹿児島県
山口藩 →長門国に山口県
高知藩 →土佐国に高知県
福岡藩 →筑前国に福岡県
鳥取藩 →因幡国に鳥取県
広島藩 →安藝国に広島県
岡山藩 →備前国に岡山県
秋田藩 →羽後国に秋田県
佐賀藩 →肥前国に佐賀県
(ただし佐賀だけは翌年に旧伊万里県を改称して復県)
記入した白地図を見ると、県名と県庁所在地名が違う県は、かなりの確率で“朝敵藩”“曖昧藩”“徳川一門”で、明確に分かれているとわかります。
「あいまい藩」は当初すべて県名に不採用
態度があいまいで日和見だった“曖昧藩”を見てみます。宇和島藩は当初、「神山(かみやま)県」と付けられ、金沢藩は郡名の「石川県」。津藩は「三重県」、これも郡の名です。津県や金沢県になっていないのです。
【曖昧藩 8藩】
宇和島 神山県→愛媛県(松山) 山名
金沢 石川県(金沢) 郡名
岩槻 埼玉県(さいたま) 郡名
土浦 新治県→茨城県(水戸) 郡名
津 三重県(津) 郡名
熊本 白川県→熊本県(熊本) 川名
徳島 名東県→徳島県(徳島) 郡名
富山 新川県→富山県(富山) 郡名
今では県名と県庁所在地名が一緒になっているのですが、当時は違ったのが熊本・徳島・富山です。熊本藩は当時、「白川(しらかわ)県」と言いました。川の名前です。徳島県は「名東(みょうどう)県」となってから「徳島県」に。富山藩も「新川(にいかわ)県」。宮武外骨が言う“曖昧藩”8藩は全て、郡・川・山の名前を付けられています。
“朝敵藩”の扱われ方
さて、宮武外骨が“朝敵藩”として挙げた藩は、13あります。松江は「島根県」。姫路は「飾磨(しかま)県」と言い、のちに統合されて「兵庫県」になります。桑名藩は「三重県」、津と一緒ですね。小田原藩は「足柄(あしがら)県」。私のふるさと、「群馬県」の高崎藩。県庁所在地は前橋市です。
【朝敵藩 13藩】
松江 島根県(松江) 郡名
姫路 飾磨県→兵庫県(神戸) 郡名
松山 石鉄県→愛媛県(松山) 山名
高松 香川県(高松) 郡名
桑名 津県 →三重県(津) 郡名
小田原 足柄県→神奈川県(横浜) 郡名
高崎 群馬県(前橋) 郡名
仙台 宮城県(仙台) 郡名
盛岡 岩手県(盛岡) 郡名
川越 入間県→埼玉県(さいたま)郡名
佐倉 印旛県→千葉県(千葉) 郡名
松本 筑摩県→長野県(長野) 郡名
米沢 置賜県→山形県(山形) 郡名
佐倉藩がある「千葉県」、千葉市には藩があったわけではない。「長野県」の長野市も、善光寺のおひざ元です。宮武が示した“朝敵藩”で、藩名が県名になったのは、一つもありません。
ここには出ていないのですが、最もひどいのは会津藩です。全国で唯一、廃藩置県じゃなくて「滅藩」、つぶされてしまいました。それから、この映画の舞台にもなった「新潟県」の長岡藩。長岡に縁のゆかりのあるジャーナリストの半藤一利さんは「当時の新潟は小さな港町で、長岡県にしたくなかったからと言わざるを得ません」(『幕末史』394ページ)と憤っています。
「賊軍」なのに同一の県名 その理由は
ただし、いくつかの例外があります。「福島県」「山形県」は県庁所在地名と同じですが、「同盟軍」側です。しかし、山形藩も福島藩も戊辰戦争後に配置替えされて、もうそこにはなかったのです。その後に県が新設されたので、旧藩と直結していないと宮武外骨は言うのです。
福島藩 明治元年に三河国に移封(重原藩)
山形藩 明治3年に近江国に移封(朝日山藩)
徳川御三家では、名古屋藩が「愛知県」、水戸藩が「茨城県」と、県名と違います。福井は徳川一門の有力な松平家があった藩ですが、「石川県」と「滋賀県」に分割され、なくなっています。その後、石川と滋賀から分割されて「福井県」を作り直しています。だから、ここも松平家の福井藩とは関係がありません。静岡には、明治政府が徳川家を江戸から配置しました。明治新政府が作った藩なのです。静岡は県庁所在地名が県名に残っている、と宮武外骨は分析しています。
【徳川一門】
名古屋藩 愛知県(名古屋) 郡名
水戸藩 茨城県(水戸) 郡名
福井藩 石川県と滋賀県を分割して再配置
静岡藩 恭順した徳川宗家を新政府が配置
ただ、紀州徳川家の和歌山藩だけが唯一、県と名前が一緒です。この理由について宮武外骨は「戊辰戦争の折にいち早く情報を得て、叛意がないとすぐ伝えたから」「紀州出身の14代将軍家茂に皇室から和宮が嫁いでいること」が理由では、と推測していますが、私にはよく分かりません。この和歌山を除いては、宮武外骨の説明は納得がいくのです。
その後も続いた「賊軍」の悲劇
「賊軍」とされた側は、単に地名が変わっただけでなく、大変な悲劇を被っています。日本が統一するために、あれほどまで死ななくてもよかったのじゃないか、と思います。その後の明治は薩長中心の政府になっていきますから、東北というだけでものすごく差別されました。
筋を通した会津藩が「賊」と呼ばれて滅亡させられてしまう理不尽さ…。会津に生まれた少年、柴五郎が後年書いた手記は、涙なくしては読めません。中公新書で簡単に読めます。どうしてこんな悲劇が起きてしまったのか、痛切に語っています。
石光真人編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(中公新書、880円)
明治維新に際し、朝敵の汚名を着せられた会津藩。降伏後、藩士は下北半島の辺地に移封され、寒さと飢えの生活を強いられた。明治三十三年の義和団事件で、その沈着な行動により世界の賞讃を得た柴五郎は、会津藩士の子であり、会津落城に自刃した祖母、母、姉妹を偲びながら、維新の裏面史ともいうべき苦難の少年時代の思い出を遺した。
この本を読むと、薩長中心の明治政府が成し遂げたことも大きいのですが、犠牲もあまりに大きくて、それも東北など「賊軍」の地域に非常に偏っていることを考えると「歴史はすごく残酷だ」と感じます。
「勝てば官軍」という言い方をしますが、日和見の藩も一気に「官軍」のふりをして生き延びた、そんな社会がこの後広がっていきます。「賊軍」という言葉から、いろいろなことが見えます。一番わかりやすいのは半藤一利さんの『幕末史』ですので、ぜひ読んでみてください。
この記事はいかがでしたか?
リアクションで支援しよう
この記事を書いたひと
神戸金史
報道局解説委員長
1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。