「美しい日本語『和多志』は戦後『私』に変えられた」という“日本語解説動画”が、ネットに出回っている。だが、これはデタラメだ。8月19日放送のRKBラジオ『田畑竜介Grooooow Up』に出演したRKB毎日放送の神戸金史解説委員長は、歴史学と日本語学の視点から、ネット上の安易な歴史観に注意を呼びかけた。
日本語を語るデタラメな動画
私は大学で日本史学を専攻しましたが、言語学を学びたいと思っていた時期もありました。でもクラスメートに言語学のすごい才能を持った人がいたので、早々に断念しました(彼は辞書編集者になり、NHKドラマ『舟を編む人』のモデルとなりました)。
私は日本語が大好きで、言葉に関してかなり保守的な人間だと思っています。今、ネット上には保守的意見があふれていて、動画もいろいろ入ってきますが、こんな主張を見てびっくりしました。若い女性が、マイクを持ってリポートしているアカウントでした。

日本から消された、「和多志」という漢字。
昔の日本では、「私」を「和多志」と書いていたのを知ってる? 「和」は調和、「多」は豊かさ、仲間。「志」はこころざし。 つまり本来の和多志は、みんなと和(な)ごし多くの志を持つ存在、って意味。
「和ごし」と言っていましたが、「みんなで和気あいあいとしている」という意味でしょうか。この解説自体、日本語としてはちょっとどうかなと思います(AI動画かもしれません)。この動画は8月13日に投稿され、9,524件の「いいね!」がついています。フォロワーは17,000人もいて、それなりに影響力がありそうです。
この後、女性はこう話しています。
でも、戦後の教育で、「わたし」の漢字が変わった。「響きが一緒だからなんてことない」なんて思ってないですか?
言葉の形が変われば、意味も意識も変わってくる。 現代(原文のママ)私たちが使っているこの漢字(私)は、稲を自分のために取る=「私欲」の意味を表しています。 古来の日本では、「私」は「ワガママ」、公の反対語だった。
なので、武士道では「私欲を捨てる」などの言葉が美徳とされていた。 日本の修身教育でも、「私より公を優先する」という価値観がとっても重要視されていた。
戦後、気づけば私たちは、私欲の字で自分たちを呼んでいた。 本来の「わたし」は自己中心ではなく、調和の為の存在だった。
そこで本来の日本語の『和多志』。
調和と、仲間と、こころざし。 『和多志』は、仲間と調和し志を共にする人。
あなたはどっちで生きますか?
知らなかったーって人は、シェアして広げてね。もっと知りたいって人はフォローして、次のリールも待っててね。
今お伝えした内容はデタラメですから、信用しないでください。戦後「私」という漢字になって、「和多志」と書いていたのを止めさせられてしまったのだ、という主張でした。
修身教育とは、今で言う道徳みたいな教科ですが、戦前に軍国主義を中心にしてきたので、戦後は廃止された科目です。動画を投稿したこの人は、基本的には戦前の価値観を肯定する投稿がものすごく多く、そしてほとんどがデタラメでしたが、「いいね!」が多いことにびっくりしました。
漢字を借用した日本の大発明「万葉仮名」
確かに「わたし」という字を、「和多志」のように書いたことはあります。でもそれは、日本語の成り立ちに関わる話で、別に「調和」だとか「志」という意味ではないのです。ひらがなもカタカナも、元々漢字スタートしているのは、小学校などで習っていると思います。
古代の日本列島には言葉はありましたが(やまと言葉)、文字がありませんでした。そこで、漢字を輸入して書いていきますが、漢文=外国語を使うからなかなか表現しにくく、そういう中で「万葉仮名」が生まれてきます。一つ一つの日本語の発音に、漢字を当てます。漢字の意味を伴っていますが、音だけを取り入れる。漢字をずらずらと並べ、それをひらがなのように読んでいくのです。
例: 日本最古の歴史書『古事記』は、日本の国土がまだ形を整えていない状態を「くらげなす」と表現し、「久羅下那洲」と書いています。
でも万葉仮名は、あまりに画数が多い。それで、まずカタカナが生まれます。例えば、「伊」と書いていたのを、左側のニンベンだけを書いていればよい、とする。これで「イ」が生まれました。漢字を全部書かずに、一部だけを使ったのが、カタカナです。

ア(阿) イ(伊) ウ(宇) エ(江) オ(於)
カ(加) キ(幾) ク(久) ケ(介) コ(己)
サ(散) シ(之) ス(須) セ(世) ソ(曽)
タ(多) チ(千) ツ(川) テ(天) ト(止)
ナ(奈) ニ(二) ヌ(奴) ネ(禰) ノ(乃)
ハ(八) ヒ(比) フ(不) へ(部) ホ(保)
マ(万) ミ(三) ム(牟) メ(女) モ(毛)
ヤ(也) ユ(由) ヨ(与)
ラ(良) リ(利) ル(流) レ(礼) ロ(呂)
ワ(和) ヰ(井) ヱ(慧) ヲ(乎)
「利」は「リ」。右側のリットウだけを使っているわけです。「ヌ」は「奴」の右側だけを、「江」も右側を使って「エ」です。一部だけを抜き出すので「中途半端」という意味でカタカナ(片仮名)と呼ばれるようになりました。
カタカナ「リ」と、ひらがな「り」の違いとは?
その後で、ひらがな(平仮名)が生まれます。漢字の全体を、草書のように崩して書きます。 「あ」は元々「安」、崩して書いたら「あ」になる。「え」は、「衣」です。何となく、そんな感じがしませんか? 「ほ」は「保」。「れ」は「礼」。「め」は「女」です。書道でひらがなを書く時、「元の漢字がどういう字か」を意識することで上手さが決まってきます。

あ(安) い(以) う(宇) え(衣) お(於)
か(加) き(幾) く(久) け(計) こ(己)
さ(左) し(之) す(寸) せ(世) そ(曽)
た(太) ち(知) つ(川) て(天) と(止)
な(奈) に(仁) ぬ(奴) ね(祢) の(乃)
は(波) ひ(比) ふ(不) へ(部) ほ(保)
ま(末) み(美) む(武) め(女) も(毛)
や(也) ゆ(由) よ(与)
ら(良) り(利) る(留) れ(礼) ろ(呂)
わ(和) ゐ(為) ゑ(恵) を(遠)
ひらがなの「り」も、カタカナの「リ」も、元は漢字の「利」です。カタカナは一部だけ取るから、右側のリットウだけを書き抜いています。でも、全体を略して書くひらがなの「り」は、左側の縦がノギヘンを意味し、右側の縦は、リットウ全体を意味しているのです。その結果、どうなったか? カタカナの「リ」より、ひらがな「り」の方が、字の横幅が広いのです。
面白くないですか? 漢字で日本語の音を書いた万葉仮名から、ひらがなとカタカナが生まれ、日本語の表現がすごく広がってきます。
「あ」が元々「安」だと意識し書く人はいない
漢字を輸入した時、「やま」という大和言葉を表現する際に漢字の「山(サン)」をあてはめました。だから、「山」という漢字の読み方は「やま」と「サン」とあるわけです。ひとつの漢字なのに読み方が増えてしまいました。この特徴が、日本語を難しくさせている一番の理由です。
同じように、ひらがなにもいろいろな書き方がありました。漢字の「和」から、ひらがな「わ」が生まれていますが、「王」「倭」を崩して「わ」と読む字もありました。少なくとも、3つの文字があったのです。
ほかにも、「多」「堂」「当」「田」を略して書いた字は、全部「た」と読みました。「し」は「之」「志」「新」「四」「師」「思」「事」「斯」。1つの言葉に1つの字ではないのです。江戸時代までの人たちは、いろいろな仮名を、寺子屋で学んでいました(漢字を学ばない庶民の子には必須の教養でした)。
「わたし」を崩し書きしたのが「和多志」ですが、「和」も「志」も、漢字の意味はゼロ。「あ」と書く時に「安」の意味だと意識して書く人はいませんよね? それと同じです。調和と志なんて、デタラメもいいところです。
江戸時代まで、1つの音を表現するいろいろな仮名があり、筆で書いていました。明治時代に入って学校教育が始まり、1つの音に、1つのカタカナ・ひらがなを当てる、と決めたのです(1900年の「小学校令」)。五十音表は、けっこう新しい話です。使われなくなった以前の文字は、「変体仮名」と言うようになりました(当然ですが、江戸時代の人は自分が書く文字を「変体仮名」とは呼んでいません)。
※ちなみに、大正生まれで2000年に亡くなった祖母「古登」は、いつも変体仮名で名前を書いていました。幼い頃に「おばあちゃんの名前はひらがななの、それとも漢字?」と聞いた時、何と答えてよいのか相当戸惑っていたのを私は覚えています。変体仮名の文化は、そのくらいまで残っていたのですね。
スタジオに、『日本語の歴史』という岩波新書を持ってきました。
山口仲美著『日本語の歴史』 (税込み1,034円) 現代の日本語はどのようにして出来上がってきたのだろうか。言葉と漢字との巡り合い、係り結びはなぜ消えたか、江戸言葉の登場、言文一致体を生み出すための苦闘など、日本語の歴史を「話し言葉」と「書き言葉」のせめぎ合いととらえる視点から読みなおし、誰にも納得のいくように、メリハリの利いた語り口で説き明かす。第55回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
2006年に買ったこの本は読みやすく、とても勉強になりました。「和多志」の動画を作った方にも読んでほしいです。適当なことを言って戦前を美化する動画はものすごく多いので、乗せられないようにしましょう。日本語を愛する、保守的な私からのメッセージです。
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この記事を書いたひと

神戸金史
報道局解説委員長
1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。





















