文書は燃やされ多くが口を閉ざしたBC級「通例の戦争犯罪」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#2
福岡県嘉麻市の碓井平和祈念館に収蔵されている藤中松雄さんの遺書。学芸員の青山英子さんは、収蔵庫で遺書を手にした時点では、BC級戦犯についてはほとんど知識がなかったと言う。
目次
BC級戦犯のことはほとんど語られてこなかった
碓井平和祈念館 学芸員 青山英子さん
「A級戦犯については知識として人並みに知ってはいましたが、BC級戦犯は、キーワードだけ。『私は貝になりたい』のドラマで聞いたくらいでした。」
BC級戦犯と聞いて、1958年に制作されたテレビドラマ「私は貝になりたい」を思い浮かべる人は多いようだ。フランキー堺演ずる理髪店主が上官の命令で捕虜を刺殺し、スガモプリズンで処刑されるまでが描かれている。翌年映画化され、2008年には中居正広主演でリメイクされている。実際にBC級戦犯としてスガモプリズンに収監されていた加藤哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」をもとに橋本忍が脚本を書いた。そもそも遺書は加藤による創作であり、BC級戦犯のエピソードを組み合わせたストーリーになっている。林博史「BC級戦犯裁判」(岩波新書、2005年)によると、BC級戦犯で二等兵に死刑が宣告された例はあるが、執行はされていないという。
「戦犯」とはなにか
そもそも日本における戦争犯罪人、「戦犯」とは、どういう人たちなのか。
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。この中に「戦争犯罪人の処罰」が含まれていた。
(ポツダム宣言第10項)
「我等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも我等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰加へらるべし」
BC級戦犯が問われたのは「通例の戦争犯罪」
戦犯裁判に詳しい恵泉女学園大学の内海愛子名誉教授によると、戦争犯罪は、a平和に対する罪、b通例の戦争犯罪、c人道に対する罪、に分けられているが、日本の戦争犯罪は、A級とBC級の二つに分類されている。A級戦犯が問われて確定したのは、平和に対する罪と通例の戦争犯罪。そしてBC級戦犯はすべて通例の戦争犯罪だという。
5700人が罪に問われ920人が処刑された
東京都千代田区にある国立公文書館には、法務大臣官房司法法制調査部が1973年にまとめた「戦争犯罪裁判概史要」がある。この資料によるとA級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判では28人の被告のうち7人が死刑となった。一方、BC級戦犯は、アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、フランス、フィリピン、中国の7カ国によって合わせて49法廷で裁かれ、罪に問われたのは5700人。死刑が宣告されたのは984人だ。注釈で実際に執行されたのは920人と記されている。
文書は燃やされ多くが口を閉ざした
A級戦犯については、元首相の東條英機をはじめ日本の指導者の立場であった人たちが罪に問われたため、よく知られていると思う。裁判資料も残され、研究している人たちも多く検証もされている。一方でBC級戦犯については、一部の研究者やジャーナリストが発信しているが、その数はA級戦犯に比べて圧倒的に少ない。920人もの命が奪われているにも関わらず、情報がないのだ。裁判記録はそれぞれ裁いた国に持ち帰られ、日本にはない。戦犯に問われることを恐れて軍が所有していた多くの文書が燃やされ、戦犯に問われた事件についても分からない。釈放され故郷に戻ることができた元戦犯の人たちも、多くが口を固く閉ざした。
戦後70年以上が過ぎても、BC級戦犯については、語られていないことが多く残されている。
(エピソード3へ続く)
【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
もっと見る1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
*本エピソードは第2話です。
ほかのエピソードは関連リンクからご覧頂けます。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。