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母と歩いた被爆地の光景 9歳の少年は50年間、話すことができなかった 

60歳をすぎてようやく自らの被爆体験を語り始めた男性がいます。「思い出すと落ち込む」苦しい惨状を、あえて今年も若い世代に伝えました。

被爆者の会に入会した35歳の女性

語り部の継承は待ったなしの課題ですが、2年前、自身にも両親にも被爆体験のない女性が「福岡市原爆被害者の会」に入会しました。福岡県苅田町の病院職員・和田由佳理さん(35)です。戦時中、祖父が小倉の兵器工場で働いていたことを知ったのがきっかけだといいます。

 

和田由佳理さん(35)
「祖父が小倉陸軍造兵廠という日本最大の兵器工場で働いていたという事実を知って。長崎に落とされた8月9日の原爆がもし小倉の空が晴れ渡っていたら第一投下目標だったその兵器工場に落とされていたら、祖父はいなかったかもしれない」

 

日本最大の兵器工場があった小倉は、原爆投下の第一目標でした。
「ひょっとすると、自分や周りの大切な人がいなかったかもしれない」和田さんは、岡崎さんたち「福岡市原爆被害者の会」で活動しながら、体験を聞き次の世代に伝える役割を担おうとしています。

被爆者に代わって朗読「証言する活動がしたい」

8月に福岡市で行われた集会では、78年前に長崎を襲った惨劇を記した証言集を、被爆者に代わり朗読しました。

 

和田さんの朗読
「家が燃え尽き、炊事場付近に母の裁縫箱の金枠だけが残っていました。そばに白い骨があり、多分これが母だろうなと思いました。朝出かけるときの『いってらっしゃい』が母の最期の言葉になりました」

 

和田さんの朗読を聞いた子どもは「戦争を見ていない人にも分かる、学校でも習わないようなことが分かりました。来てよかった」と話しました。

 

和田由佳理さん(35)
「いくら本を読んだり映画を観たりしても、戦時中の状況というは想像することしかできません。でもそこを諦めてしまってはいけない。今自分にできることを探しながら、証言する活動を今後必ずやっていきたい」

87歳と35歳がつなぐ被爆体験

「みんな戦争を忘れてきている」と現状を危惧する和田さんに、岡崎さんは、穏やかなまなざしでこう語りかけました。

 

岡崎満也さん(87歳)
「まだ伝えていくべき。これが平和の第一歩ですよね」

 

和田さんは、自分たちは被爆者から直接話を聞くことができる最後の世代と話します。
そして被爆者の岡崎さんも、「後継者」が現れたことに安心した様子をみせました。

 

岡崎満也さん(87歳)「ほっとしましたね、いい人に出会ったなと。頑張って伝えていってくれるならありがたいなという気持ちです」

 

和田由佳理さん(35)
「本当におつらい体験をこうやって子どもたちや私たちに話してくださるそのお気持ちを確かに受け止めて次の世代へと繋げていくのが私の責任かなと感じています」

取材


RKB毎日放送報道部 土橋奏太記者
2000年生まれ 長崎県出身

取材後記

今年5月にRKB毎日放送の報道部に配属され、戦争の惨状を伝える取材は初めてでした。中学生を前に岡崎さんが体験を語る会場に向かう前、『きっと重い空気の中での取材になるだろう』と覚悟して行ったところ、予想に反して証言を始める前の岡崎さんは、同行した娘さんとにこやかに談笑されていました。後に岡崎さんと話す中で「自らの被爆体験を伝えることが生きがい、来年も頑張ろうという思いが元気でいなければならないというモチベーションになる」とおっしゃっていて、「伝え続けるために元気でいたい」という岡崎さんの笑顔の意味をなんとなく理解することができました。

 

記者の私も被爆者3世ですが、幼いころから原爆について学んではいたものの発信しようとはしていませんでした。その意味で、30代の和田さんの思いや発信し続けようとする姿勢にも気づきをもらいました。
「被爆者ではない、2世・3世でもない私にできることはないだろうと思っていた自分が間違いだったと気付いた。私みたいな普通の会社員でも何か一歩踏み出すことができる」という言葉が印象に残っています。

 

長崎や広島の人だけが原爆を学び考えても、核兵器はなくならないと私は考えています。「原爆と直接かかわりのない地域、世代の人に原爆の悲惨さを知ってもらうこと」私も記者という立場で、伝え発信していきたいと改めて感じています。

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この記事を書いたひと

土橋奏太

2000年生まれ 長崎県出身

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