1945年4月15日に起きた米兵捕虜殺害事件、「石垣島事件」の現場を特定しようとしていた私たちに、ジャーナリストの森口豁さんから貴重な情報が寄せられた。もう一度、現場付近を歩いてみたところ、石碑をみつけたというのだ。石碑には「戦後60年」という文字があるという。これは事件の関係者が造ったものなのだろうか。
現場近くにあった石碑 事件の関係者が?
2020年10月に、ジャーナリストの森口豁さんに同行していただいたロケでは、石垣島事件の現場の特定はできなかった。1962年に米軍が撮影した航空写真には写っていた目印の松の大木も土地改良事業で切られてしまい、国立公文書館の資料を元にロケの前に用意した場所を推測した地図も役に立たなかった。そのひと月後、別の用事で石垣島へ行かれた森口さんから電話があった。
「この前の現場のあたりをもう一度見に行ったんだよ。そしたら道の脇に倉庫が建っているところがあったでしょう。そこに石碑があったんだよね。内容がね、『戦後60年回想』って書いてあるので、これは関係者が建てたものじゃないかなあ。」
平和の願いを込めた「とぅばらーま」
送られてきた石碑の画像を見ると、「戦後60年回想とぅばらーま 作詞 宇部克」と記されていた。早速、「石垣島の宇部克さん」について調べてみると、その周辺の土地の所有者、つまり地主さんだった。石垣市によると「とぅばらーま」は、独特な旋律に、恋や人生の悲喜をのせて唄う八重山民謡の最高峰で、市では1947年から後世に継承し発展させること、観光資源のひとつとして広く発信することを目的として、毎年旧暦の8月13日に「とぅばらーま大会」を開催している。宇部さんは戦後60年の2005年に作詞の部で最優秀賞を受賞した。その受賞作を石碑に刻んだということだった。
父が目撃した石垣島事件
電話で宇部さんから石碑についてのお話を伺いながら、石垣島事件とは関係がないように思ったが、「石垣島事件をご存じですか?」とお尋ねすると、意外にも「知ってるよ。親父が処刑の現場を見たんだよ」という答えが返ってきた。そして、大きな松の木についても聞いてみると、「あったよ。土地改良事業で切られたけど、場所はわかるよ」ということだった。前回のロケから2か月後、2020年12月に再び石垣島へ向かった。宇部さんに松の木があった場所を教えてもらい、現場を特定するためだ。現地では森口豁さんの著書を出版している南山舎の上江洲儀正さんも取材に協力してくださり、宇部さんを車に乗せて連れてきてくれた。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。