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太平洋戦争末期、1945年4月に米兵捕虜3人が殺害された「石垣島事件」では、米軍が開いた横浜軍事法廷によって、元日本兵7人がBC級戦犯として死刑執行された。そのうちの一人、下士官だった藤中松雄。28歳で命を絶たれた松雄の取り調べの際の調書が、国立公文書館に収蔵されていた。杭に縛られた捕虜を“自発的”に銃剣で刺したという。どんな心境で刺したのか。そしてこれは事実を語ったものなのか-。
1947年 福岡での取り調べ
終戦後、松雄が博多に上陸、復員したのは、その年の12月だ。故郷の福岡県嘉穂郡(現在の嘉麻市)に戻って、近くの炭鉱に働きに行きながら農作業に汗を流し、家族との時間を過ごしていた松雄は、わずか1年余りで、福岡市に呼び出された。1947年1月末のことだ。その10日前に妻ミツコとの間に二人目の子供が生まれていた。次男の孝幸さんだ。松雄は25歳になっていた。
国立公文書館に収蔵されている石垣島事件のファイルの中に、問答形式になった藤中松雄の陳述書が2通入っていた。1通は福岡での取り調べの内容だ。弁護人が保管していたものと思われる。まず宣誓から始まっていた。
藤中松雄の陳述
私、藤中松雄は昭和22年2月3日、福岡市に於ける最高司令官SCAP法務部福岡支局に於いて、良心に従い真実を語り、何事も加えず、何事も隠さないことを宣誓した後、次の様に証言した。
このあと、年齢、国籍、住所や簡単な軍歴など、基礎的なプロフィールを聞かれたあと、当時の任務を聞かれる。
問 石垣島で何隊にいたか
答 井上警備隊(注・井上乙彦大佐が司令を務める石垣島警備隊)
問 直属の上官の名、及びその隊の名をのべよ
答 今村少尉の今村隊
問 今村隊における貴方の任務は。
答 自動車隊、建設作業
事件当日、松雄は何を見たか
陳述書ではここから、事件当日の松雄の動きについて聞いていく。
問 井上警備隊に捕らえられた連合軍飛行士についてどんなことを知っていますか。
答 昭和20年4月頃、3名の連合軍飛行士が警備隊に捕らえられた。飛行機が撃ち落とされ、パラシュートで大浜海岸の海上に降りた。
問 飛行士が訊問されるときにその辺にいたか。
答 いいえ、自分は50ヤード(約46メートル)離れたところで、防撃陣地を掘っていた。
問 この飛行士の私物に対してどんな処置がなされたか知っているか。
答 はい、今村隊のHが1人の飛行士の靴をとって、後に北田兵曹長が履いているのを見た。彼は照空部隊の指揮官であった。
問 三名の飛行士に対してどんな最終処置がされたか。
答 二人は斬首、一人銃剣で刺殺された。
問 貴方は処刑場へ行ったか。
答 自分は銃剣刺殺の事件の時に到着した。斬首の時には全くいなかった。
問 処刑があると初めて知ったのは何時か。
答 その日、私は八時から九時の間、自分の寝舎に行った時に、当直員から処刑があること、その場へ行くことを知らされた。
問 処刑場へ誰と一緒に行ったか
答 独りで行った。
問 その時、何か武器を持っていったか
答 いいえ。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。