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松雄の調書に書かれたメモ「私は命令によって行動したのです」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#23

米兵の捕虜を銃剣で刺して殺害したとして、BC級戦犯に問われた藤中松雄。スガモプリズンに収監される前に、福岡で呼び出されてとられた松雄の調書には、小さなメモが書き込まれていた。そこには、「命令はあった」と書かれていたー。

陳述書に書かれたメモは

藤中松雄の陳述書(国立公文書館所蔵)


1947年2月3日、福岡でとられた松雄の調書を見ると、最初にメモが書き加えられているのは、松雄が知っていた事実として「米兵が搭乗していた飛行機が撃ち落とされ、パラシュートで大浜海岸の海上に降りた」と答えた部分だ。パラシュートというところから波線が引かれ、その下に小さく「パラシュートで大浜海岸に降りるのを見ず、又知らなかった」と書かれている。

また、「飛行士が訊問された時に見たか」という問いに対して、松雄は「いいえ」と答えていたが、ここにも「防空壕前に洗濯に行き見た」と小さく書き入れられている。「当直兵が、処刑があること、その場へ行くことを知らせり」という部分には、「処刑あるとは聞かず、現場に行けとも知らされず、当直室前集合を聞いた」とメモがあった。

「命令あった」とメモ

さらに、「炭床兵曹長が杖で胸や顔を殴った」という箇所には、「顔は杖で殴らなかった」と書いてあり、松雄が捕虜のどこを刺したという重要な点については、「胸の左側、心臓部」の下に、「右側胸部下」とメモされていた。

そして、焦点となっている「命令があったか、なかったか」ということに関しては、「何かの命令や指図を聞かなかったという事は確かか」というところに、「命令あった」とメモ書きされていた。「このような殺し方をすることが予め計画されていたことを知っていたか」という質問に対して、松雄は「ハイ」と答えていたが、ここにも「現場について榎本中尉の命令を知った」と書いてある。

このメモは、裁判の課程で証拠として提出された調書を、弁護人が松雄に見せて、事実と違うところを書き入れていったもののようだ。

メモの中に核心が

藤中松雄の陳述書(国立公文書館所蔵)


さらに、もう1通の松雄の陳述書にも、メモが入っている。こちらは、上記の調書よりも「命令はなかった」という部分と「ほかの兵士が捕虜へ暴行した」というところが強調されて取られているが、その肝心なところにメモが入っている。

「何も命令を受けずに俘虜を突き刺した、自分ははっきりとこの点を記憶している」というところに、「この調査に命令をされたことを陳述しなかったのは、元上官だった榎本さんに迷惑をかけないと考え、真実は命令されたのです。又、福岡で榎本さんの打ち萎れた姿を見て、書くことできませんでした。」「私は命令により行動したのです」と、全面否認するメモがあった。

また、刺突前の暴行についても、ほかの兵が「蹴った」というところに、「蹴った様に、私の見違いでした」と書かれ、陳述書の最後は「私は榎本さんの命令で行動したのです。現場で搭乗員の惨めな姿を見らざる時、突然の命令で行動したのです」というメモで終わっている。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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