大佐から口止め「真実を云ってくれるな、頼む」事件の真相を知る少尉~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#30
太平洋戦争末期、1945年4月に石垣島で3人の米軍機搭乗員が日本兵によって殺害された石垣島事件。その日捕らえられた搭乗員の殺害は誰が決めたのか。石垣島警備隊の本部にいた海軍少尉が処刑実施に至る詳細な経緯をまとめていた。その文書に書かれていたのはー。
銀行員の元少尉
処刑実施に至る経緯をまとめていたのは、前島勇市海軍少尉だ。石垣島警備隊では衛兵司令だった。
1949年に行われた横浜裁判の再審査資料によると、前島少尉は年齢49歳。住まいは佐賀県で、妻と息子1人、娘が5人いた。母親と兄弟2人、姉妹2人も同居する大所帯だ。職業は銀行員。海軍には終戦まで26年在籍した。一審で死刑の宣告を受けたが、1950年3月、GHQによる再々審で終身刑に減刑されている。釈放されぬまま、1953年6月24日にスガモプリズンの中で生涯を終えた。53歳の年だ。
死の前に書いた主張
亡くなる5ヶ月前、1953年1月31日付けで、前島少尉は巣鴨委員会の「戦犯事件調査票」を作成している。丁寧な字でぎっしり書かれた文書だ。この調査票は、「近く派遣される戦犯釈放使節団の携行資料となるので、戦犯事件と裁判に関して何でも主張したい事項を書く」という趣旨のものだった。
この調査票に前島少尉は、井上乙彦司令と井上勝太郎副長の「知らぬ」という無責任な態度によって、自分が罪に問われたと主張している。
「司令はこの件は知らぬ、存ぜぬと口述書に述べ、副長も不在であったから知らぬと口述書に述べ、両人とも前島が実施して殺害したと述べられてあります為に罪状項目の如く、私にかかってきたものと思います。私は司令の命を受けて処刑現場まで自動車にて送り届け、指一本触れた覚えはありません」
大佐から口止めされた
さらに、司令の井上大佐から裁判中に口止めされたという。
「裁判中、司令の大佐は私に真実の事を云ってくれるな、頼む、真実を云えば関係者全部、同罪として見られるから、そう思ってくれと申し述べられました」
前島少尉は、裁判でも証言台に立つ事はなく、真実を述べることはなかったようだ。
「裁判に際し、アメリカ人弁護士ワイマンの取り調べがあり、各人とも対決したため、真相は判明しましたので、弁護士は無罪で帰れるから心配するなと再三申し聞かされました。途中で弁護士は交代し、ブライフィールドという女性でしたが、証言台に出なくとも君の不利にはならないから出るなと証書をくれましたので、証言台にも立つ事出来ませんでした」
結局、前島少尉は死刑を宣告された。後に終身刑に減刑されたとしても、理不尽な思いに駆られていたであろう。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。