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対中外交で安倍晋三元首相が遺したものは?

安倍晋三元首相が凶弾に倒れて1週間になる。安倍氏は首相在任中から「地球儀を俯瞰する外交」「価値観外交」を掲げ、自ら率先して推進してきた。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長が、出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で安倍元首相が実践した中国、台湾との外交で“遺したもの”について考える。  

故事成語を用いて相手の懐に入った安倍元首相


「台湾有事は日本有事であり、日米同盟の有事です。この点の認識を、習近平主席は断じて見誤るべきではありません」
昨年12月。台湾でのシンポジウムに、安倍氏はオンラインで参加し、こう発言した。「ことが起きれば、日本もアメリカも黙っていないぞ」ということだ。この発言を受けて、中国外務省はただちに「強烈な不満と断固たる反対」を表明して強く反発した。

 

安倍元首相といえば、「タカ派」のイメージがある。海外のメディアからは「ナショナリスト」という評価も出ていた。ただ、首相在任中は、自らの主義・主張を封印していた。それが見えた場面をいくつか回想したい。

 

安倍氏は2006年10月8日、中国を訪問した。9月26日に国会で首相に指名されたばかりで、就任からわずか13日目のスピード訪問だった。日本の首相の中国訪問は5年ぶり。さらに安倍氏は中国に続き、同じように歴史問題がトゲになっている韓国も訪問している。

 

北京に到着してすぐに臨んだ温家宝首相との会談の冒頭、安倍氏はこう語りかけた。

「今朝、東京を発つ時、北京は雨かどうか心配だったが、よい天気になりました。『雨過天晴(うごうてんせい)』という言葉がある。私は日中両国の未来が晴れると信じています」
実はこの日、北京には珍しく朝から雨だった。それが日本政府専用機の到着に合わせるかのように天気は回復した。「雨過天晴」これは中国・明代の文学に載った成語で「厳しい状況がガラリと好転する」という意味がある。

 

のちに外務省幹部に聞いた話だが、安倍氏訪中のとき、事務方は冒頭の挨拶に使える、中国の故事や成語をいくつも用意していた。その中から、安倍氏は事務方と一緒に北京の空を見上げて「雨過天晴」を選んだという。

 

古典を引用し、博識を披歴する術は、多くの中国の指導者が特に好む。漢字は中国から日本へ渡った。中国の成語を日本の首相が引用すれば、大きな効果を生む。相手の懐に入りやすいのだ。

 

安倍氏の前任の首相は小泉純一郎氏だが、中国、韓国の首脳と感情的な対立関係に陥っていた小泉氏との違いを印象づけるこの訪中、訪韓は、周辺国との外交を改善したいという外務省の仕掛けだった。安倍氏自身も、より大局的な観点に立ち返り、心の問題や個人の思いより、国益、外交を優先させたのだろう。

氷を砕いても厳しい目で見られ続けた安倍氏の「宿命」

日本と中国の間にある「戦略的互恵関係」という約束は、この安倍氏の訪中で決まった。日本と中国が、歴史問題をまずは棚上げし、政治の信頼関係、国民同士の相互理解を深めて、さまざまな分野で共通の利益を目ざそうとするものだ。

 

凍り付いていた日中関係だったが、安倍氏の訪中は「氷を砕く旅」と称された。7か月後の2007年4月に温家宝首相が日本を訪問した際には「氷を溶かす旅」と名付けられた。

 

しかし、安倍氏に対する中国の目は厳しかった。首相就任までのタカ派的発言だけが原因ではない。「流れる血」が関わっている。戦前、中国東北部にあった日本の傀儡国家・満州国へ赴任した高級官僚が、安倍氏の祖父・岸信介だった。1936年からの3年間、満州国の国家運営にらつ腕を振るった。のちに岸は「満州国は私の作品」(=自分が作り上げた、の意味)という言葉を残したとされる。そして、満州人脈は戦後へと延び、岸は首相の座に就く。

 

中国にとって満州国は「侵略された側の負の歴史」だ。安倍氏自身は意識しなくても、中国を刺激する言動が今後、祖父の歩んで来た道と重ね合わされる。それは「宿命」と言ってもいい。

「戦後最悪」の日中関係の中で習近平主席と会談

胡錦濤主席の時代にいいスタートを切った安倍氏だが、2014年11月の習近平主席との初の首脳会談では逆の対応を受けている。その2年前に、日本は尖閣諸島を国有化しており、それ以降、日中関係は「戦後最悪」と呼ばれていた。

 

「まずは対話を」と意気込む安倍を、習氏は仏頂面で出迎えた。目も合わさず、写真撮影でもソッポを向いたまま。当時の中国国内の雰囲気もあり「日本にはいい顔できない」という国内向けポーズとはいえ、外交儀礼上、礼を失する応対だった。安倍氏も我慢しただろう。

 

ただ、2018年10月に、安倍氏が中国を訪れた時には習氏は歓待している。「長期政権を続ける実力派リーダー」として重視せざるを得なかったのだろう。

台湾にも深い悲しみを与えた安倍氏の死去

一方、台湾とは自由や基本的人権、民主主義、法の支配という普遍的な価値観を共有する国と協力していこうという「価値観外交」の関係にあった。祖父である岸信介、父・晋太郎も台湾を支持してきた。冒頭の「台湾有事は日本有事」が物語る。今日、正式な国交はないものの、台湾との良好なつながりは安倍氏の存在が大きい。

 

安倍氏の突然の死は、台湾では大きな悲しみをもって、受け止められている。台湾のナンバー2、頼清徳副総統が11日、日本を訪問した。日本と台湾が1972年に断交して以来、訪日した台湾の要人としては85年の李登輝副総統(当時)と並んで最高位だ。頼氏は、11日に安倍氏の自宅を弔問。12日の葬儀に出席した。当然ながら、中国側は「台湾当局が安倍氏の死去を政治利用している」と反発している。

 

日中間の海、また台湾を含めた海域は、時に穏やかに、時に波立つ。さきほどお互いの首脳訪問について「氷を砕く旅」「氷を溶かす旅」と紹介した。日中間で言えば、いったんは氷が砕かれ、氷が溶けたが、今は再び凍り付いた状態。国交正常化50周年を迎える秋を前に、参院選に勝利した岸田首相はどう動くだろうか。

飯田和郎(いいだ・かずお) 1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。
 

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