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ヒップホップ隆盛を築いたパイオニア・Run-DMCの“4つの功績”とは

ラジオ
世界の音楽シーンで隆盛を極めるヒップホップ。「その今を作ったのは紛れもなく、パイオニアであるRun-DMCに他ならない」と音楽プロデューサー・松尾潔さんは言う。出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で、その功績を解説した。  

ヒップホップのパイオニア「Run-DMC」

Run-DMCというグループをご存知でしょうか。スーパーロックグループのエアロスミスと共演した「Walk This Way」で、世界的なヒットを記録して以来、ラップのみならず音楽シーンの中で有名な存在としてずっと影響力を持っている人たちです。

 

3人組なんですが、グループ名にも名前が入っているラッパーのRunことジョセフ・シモンズがきょう(11月14日)58歳の誕生日なんです。「58歳!?」という驚きがあるかもしれませんが、日本人アーティストでいうと、久保田利伸さんは60歳です。

 

それはさておき、今世界の音楽シーンでヒップホップは隆盛を誇って久しく、アメリカではチャート上位のほとんどがヒップホップ、ラップで占められることは少なくありません。そのパイオニア的なグループと言われるのがRun-DMCです。

 

アメリカほどではありませんが、日本でもヒップホップの人気者がたくさん出てきて、音楽の形態として定着しているんじゃないかなと思います。

ヒップホップとスポーツブランド

ファッションの世界でも活躍していたカニエ・ウェストという大物ラッパーがいるんですが、先ごろ、反ユダヤ発言でさまざまなブランドとのエンドースメント契約が解除された、ということがニュースになっていました。

 

中でも一番大きなものがアディダスとの契約だったんですが、一説によるとアディダスはカニエを切ったことで、2億ドル以上の損失が出たとか。まさに一アーティストとの契約を超えたビジネスですね。アディダスの売り上げの約1割は、カニエが関わっていたブランド「イージー」だったと言われています。

 

アディダスだけでなく、ナイキとか、いろんなスポーツブランドが今、ヒップホップ、ストリート的なミュージシャンたちとのコラボレーションを出しています。日本のアディダスでもKing Gnuがずっと宣伝塔になっています。

 

本来であれば文化系と運動系で、相容れなかったはずなんですが、今では何の違和感もなく受け入れられているミュージシャンとスポーツブランドとの提携も、やはりRun-DMCがその先駆けということになると思います。

ヒップホップアーティストとして初めてMTVの人気者に

Run-DMCの果たした功績を改めてまとめてみました。第1に、ロックアーティストと共演して、ラップアーティストとして初めてMTVの人気者になったということですね。冒頭にお話した「Walk This Way」は、元々エアロスミスの曲をラップカバーしたものなんですが、当時人気が停滞しかけていたエアロスミスを担ぎ出して、本人たちと共演したんです。

 

MTVは白人キッズの人気者ばかりが出ていて、黒人アーティストだとマイケル・ジャクソンやプリンスといった、限られた人しか出てなかったんですが、ここにラップアーティストとして初めて、エアロスミスと組むことによって登場したんです。おまけにエアロスミスもこれで人気を回復した、というのが「Walk This Way」ですね。

“陽気な奴ら”ではなく“強面のイメージ”で世に出る

彼らが世に出てきたのは1983年。ヒップホップの最初のメジャーヒットは1979年のシュガーヒル・ギャング「ラッパーズ・ディライト(Rapper's Delight)」と言われているので、まさに黎明期ですね。

 

「ラップは一過性のものじゃないか」なんて疑われていた頃の1983年、Run-DMCは「It's Like That」でデビューしたんです。それまでのラップの、パーティっぽいイメージとか楽しいイメージ、陽気な奴らみたいなのじゃなくて、ちょっと強面のやつらって感じで出てきました。

 

「It's Like That」も、「失業率が高い、過去最悪だ。俺達は死ぬために生まれたみたいなもんじゃないか。なんでこんな世の中になったのか理由はわかんないけど、そんなもんなんだ。それが現実だよ。It's Like That」という怒りの曲。要は黒人にとってのパンクみたいな、反体制のメッセージ、音の攻撃性っていうのがあったんですね。

“衣装がない”のが衣装

第二は、ヒップホップとファッション。つまり、彼らはストリートで身につけているようなレザーのジャケットにハットかぶって、足元アディダスっていう「衣装がないのが衣装」みたいな。それから随分経って日本でそれをやったのがPUFFYとかですよね。

 

そのときにRun-DMCは普段の生活でそうやっているように、アディダスのスーパースターを紐なしで履いたんですね。こういう、アスリートとは一風違った着こなしがかっこいいとされて、アディダスから、後付けで公式アーティストみたいになって、Run-DMCモデルまで登場したわけです。

 

ミュージシャンの公式モデルがスポーツメーカーから出るなんて、当時は異例中の異例でした。これに便乗して、Heavy D & The Boyzという別のラッパーは「Nike」って曲を作って、曲の中にブランド名を織り込むということも流行りました。そういうのもRun-DMCの「My adidas」がきっかけと言われてます。

Runの兄 ヒップホップの導師 ラッセル・シモンズ

そして第三の功績は、Runの兄でもあるマネージャーのラッセル・シモンズの存在。彼はもともとRun-DMCよりもっと前のカーティス・ブロウというラッパーのマネージャーだったんですが「ヒップホップは金になる」というところに目をつけて、デフジャム(Def Jam Records)っていうマネジメント組織を作り、映画ビジネスに打って出て『クラッシュ・グルーブ』という映画で、弟のグループであるRun-DMCを出演させてヒットさせたんです。

 

あとはファッション。アディダスと組むだけじゃなく、身内でブランドを立ち上げました。また、ロビイストとして、オバマ政権を後押ししたのも、このラッセル・シモンズといわれています。

「2MC+1DJ」ヒップホップのフォーマットを作る

このRun-DMC、現在のグループの活動としては長い休眠に入っています。というのも、Run-DMCは2人のラッパーと1人のDJですが、そのDJ、ジャム・マスター・ジェイが射殺されてしまうという痛ましい事件があったからなんです。

 

ラッパーのRunさん、なんと今牧師さんになっているんですね。牧師になってもラップは続けていて、キリスト教の世界においても一石を投じる存在になっているんです。

 

彼らの功績の中で忘れちゃいけないのが、2人のラッパー(MC)と1人のDJ、「2MC+1DJ」というフォーマットを定着させたことなんですよね。ラップグループっていうと、なんとなく3人組が多いようなイメージがありませんか? 日本で最初にヒップホップのヒットを出したと言ってもいいスチャダラパー。それからライムスター、イーストエンド。キングギドラ。みんな2MC+1DJっていうフォーマット。アメリカでもデ・ラ・ソウル、ATCQといったグループが今のヒップホップの形を作ってきています。

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