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19歳で死刑宣告を受けた元戦犯は~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#17

1945年にグラマン機に搭乗していた米兵3人が殺害された「石垣島事件」で、BC級戦犯に問われた男性が、2001年インタビューに応じていた。事件当時わずか16歳だった小浜正昌。軍隊に入ってたった2週間で米兵捕虜の処刑現場に立ち会うことになった。16歳の少年が殺害に関わったのにはどんな経緯があったのか-。

19歳で死刑宣告を受けた元戦犯が語ったこと

小浜正昌さんと話を聞く森口豁さん

 

2001年、TBS系列で放送していた「筑紫哲也 NEWS23」の終戦特集で、小浜さんは元戦犯として取材を受けていた。インタビュアーはジャーナリストの森口豁さん。小浜さんは森口さんの著書「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」の主人公、田口泰正が小隊長を務める隊にいた。そのため、森口さんは10年以上前から小浜さんに話を聞きたいとアプローチしてきたが、3回ほど断られ、2001年のこの時にやっと本人と話が出来た。森口さんからの質問に小浜さんは率直に自分の体験を語った。

(森口さん)「死刑を宣告された時はどんなお気持ちでしたか?」

(小浜さん)
「これはね、言葉で表現できないんですよ。はっきりいって。あんたはどういう心境だったか、どういう気持ちだったか、よく質問されましたよ。表現できないですよ、この心境は。ただ自分は、まさか死刑になるとは考えていなかったから、びっくりしたのは間違いないんですよ。年は若いし、事件が起きたのは入隊して何日かしか経ってない時だし。結果はとにかく41名死刑ですよ。手錠をはめられて独房にぶちこまれた時に、初めて、死刑の判決受けたんだなって気持ちになりましたね。」

入隊2週間 事件に関わることになったきっかけは

殺害された3人の米兵とグラマン機

 

米軍のグラマン機に搭乗していた米兵3人が殺害された「石垣島事件」が起きたのは、1945年4月15日。連合軍からの攻撃が激しくなる中、小浜さんも空襲に遭っていた。石垣港で荷揚げ作業をしていた時だ。

 

インタビューに答える小浜正昌さん(2001年 当時73歳)

(小浜正昌さん)
「朝、まだ食事前、早い時間に陣地から出て荷揚げ作業に出ましたからね。この辺に輸送船が停泊していて、僕らは小隊派遣されて船に乗って荷物を降ろしに行った。そしたら降ろしている最中にグラマン機に発見されて攻撃された。射撃にあって、とにかく両方からはさみ撃ちですから、船の中で右に行ったり左に行ったり逃げ回りながら、命拾いして上陸したわけです。その中で戦友が3名やられました。」

“戦友の仇討ち”で処刑に参加

命を落とした戦友3人は、いずれも田口泰正少尉が小隊長を務める、同じ隊の兵士だった。
戦友の死を目の当たりにした記憶もまだ鮮明な中、捕らえられたグラマン機の搭乗員3人が殺されることになった。

(小浜正昌さん)
「戦友がやられたから、その復讐だっていう気持ちもないわけでもないし、僕ら一小隊は全部みんな参加したわけですよ。その事件の処刑に。」

小隊長の田口少尉はタグル兵曹の斬首を命じられて実行。田口隊の兵士たちは杭に縛られたロイド兵曹を銃剣で次々に刺した。事件の現場は「戦友の仇討ち」の様相を呈していた。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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