旧満州(現在の中国東北部)で日本の敗戦直後、開拓団を襲撃から守るため、旧ソ連兵に対して、「『性接待』をした」と証言した岐阜県郡上市の、佐藤ハルエさん(99)が1月18日、老衰のため死去した。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長は1月25日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演し「日中関係に関わってきた者、調べてきた者にとっては、忘れてはならない存在だ」とエピソードを紹介した。
「1人の女性の死去から戦争を考える」
1月18日に99歳で亡くなった佐藤ハルエさんは、やむを得ず、ソ連兵を相手に、性交渉を強いられた。仲間を守るために。そして、その辛い経験を自ら語り続けた。
日本は、1932(昭和7)年、中国東北部に傀儡国家・満州国をつくった。その満州での農作物の生産、それにロシアとの国境警備のため、日本人を送り込んだ。日本国内で生活に困窮した農民らが開拓団として満州移住に応じた。
「満蒙開拓団」という言葉を聞いたことがあるだろう。日本全国から27万人が海を渡った。ハルエさんが暮らしていた岐阜県黒川村も、多数の村民を送り出した村のひとつだ。黒川村からは600人以上が加わった。
昭和18年、ハルエさんは両親、祖父母、自分の弟とともに家族6人で、現在の中国吉林省の村へ入植した。18歳だった。戦争が終わるのは、昭和20年8月だから、入植から2年後。終戦前後に、国境を越えて、ソ連の軍隊が満州へなだれ込んできた。
満州に置かれた日本の軍隊は、関東軍と呼ばれていた。戦況が悪化しており、関東軍の多くの部隊はすでに南方へ転戦。満州の警備は手薄になっていた。日本の軍隊の大部分は、同じ日本人の開拓民を置き去りにして逃げてしまった。
そのような混乱の中で、ソ連の兵隊への「性接待」が始まった。終戦時、ハルエさんは20歳になっていた。開拓団の若い男性たちは、現地で兵隊にとられていない。現地の中国人からの襲撃、つまり略奪や暴行がすぐに始まった。残されていた開拓団の幹部がソ連の兵隊と交渉をすることになる。
「開拓団を守ってほしい」。ソ連兵にそう頼んだ。そしてその代償に「女性を差し出す」と。ハルエさんら未婚の女性は開拓団の幹部から、指示された。生前、毎日新聞の取材に答えて、幹部からの指示を証言している。
「夫が兵隊に行っている家の嫁さんには頼めないから、あんたらが犠牲になってくれ」
ハルエさんら未婚の15人が、1か月半ほどソ連兵の相手を務めた。15人は17歳から21歳だった。開拓民が共同生活する場所の一角に、接待するスペースが設けられたという。ハルエさんは、こうも語っている。
「仕方がありませんでした。反発はひとつもできなかった。開拓団を守るために犠牲になりました」
生きて日本に帰るために差し出された
なんとしても、生きて日本に帰るために、彼女たちは差し出された。ハルエさんの開拓団の隣の地区には、熊本の開拓団があった。ここはほぼ全ての開拓民が毒を飲み、家々に火を放って自決した。
それを知ったハルエさんの開拓団でも、団員全員が自決をすべきだという意見が出るようになった。しかし、ハルエさんのお父さんが「そんな簡単に捨てていい命じゃない。日本に帰らなければ」と声を上げた。娘のハルエさんがそう証言している。
終戦から1年が経った昭和21年9月。ソ連兵の相手をした未婚の女性15人のうち、4人は性病などが原因で、帰国する船に乗れず、現地で亡くなっている。「なんとしても生きよう」と声を上げたハルエさんの父親も現地でチフスを患い、亡くなった。
そのような苦難があったのち、岐阜県に戻ったが、満州で起きた事情はすぐに広がり、ハルエさんらは「満州帰りの汚れた娘たち」と呼ばれた。故郷に居づらくなったハルエさんは居住地を移して暮らした。
そこで夫と知り合い、事情を伝えたのちに結婚。4人の子供、9人の孫、8人のひ孫に恵まれた。毎日新聞の取材に同席したハルエさんの長男は「母は大変な経験をして帰国した。でも開拓団が集団自決をしていれば、今の佐藤家はありませんでした」と語っている。
「戦争ではばかげたことが起きる」
ハルエさんは2013年ごろから、満州での出来事を公の場で語るようになった。
「なかったことにはできません。恥ずかしいことじゃない。戦争ではばかげたことが起きるのです」
ハルエさんは80歳を過ぎていた。「もう時間がない」との思いからだった。出身地の岐阜県白川町(旧黒川村)には、「性接待」の事実を、後世に伝えるための碑文が設けられている。私も、見学したことがある。「性接待」を強いられた女性の中でも、満州での出来事を語り続けた1人が、佐藤ハルエさんだった。
話は逸れるが、保守系の論者で知られる櫻井よしこさんが先日、自身のX(旧ツイッター)に、こんな投稿をした。
「『あなたは祖国のために戦えますか』。多くの若者がNOと答えるのが日本です。安全保障を教えてこなかったからです」
もちろん、安全保障は大切。だが影響力のある論客が「あなたは祖国のために戦えますか」と言って「国のために戦い、そして、殉じてしまうことも厭うな」と意味するような発言をしていいのか。どうやって、戦争をしないようにするのかを、考えたい。
「国策」という名前のもとに、満州へ国民を送り込んだ国家は、軍隊は、その国民を置き去りにした。国は国民を守ってくれない。そして、生きるために、きょう話した悲しい出来事が起きた。私はそれを伝えたかった。
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この記事を書いたひと
飯田和郎
1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。