「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#33
1945年、米軍機搭乗員3人を殺害した石垣島事件で、BC級戦犯として処刑された石垣島警備隊の若き副長、井上勝太郎。スガモプリズンでの井上の様子がわかる手記があった。歌作に励んでいた井上。その人柄。そして死刑執行の日、彼の様子はー。
元主計大尉が遺した日記
自ら「巣鴨日記」と名付けた手記を遺していたのは、冬至堅太郎。井上勝太郎の9歳年上だ。福岡市に置かれた西部軍の元主計大尉で、東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業している。福岡大空襲で母を失い、西部軍に集められていたB29搭乗員を4人斬首して、BC級戦犯に問われた。絞首刑を宣告されて、井上勝太郎と同じ死刑囚の棟にいた。冬至堅太郎は多彩な人で、スガモプリズン内で、「歌集巣鴨」や「戦犯裁判の実相」「世紀の遺書」などの書籍の編集に関わるほか、「巣鴨三十六景」という版画集も製作している。
歌作に励む戦犯死刑囚たち
冬至堅太郎と同じ西部軍が関係する事件には、九州帝国大学医学部の捕虜生体解剖事件があり、九大の医師たちも同じ死刑囚の棟にいて、歌会をひらいていた。日本の拘置所では考えられないが、スガモプリズンでは夕食後、「Visit(ビジット)」と言って、ほかの部屋を訪ねることができた。そうやって交流ができる死刑囚の棟で、それぞれが歌作に励んでいたのだ。井上勝太郎もその一人だった。
幾度か紙片を送り交わしつつ隣房の友と歌一つ論ず (井上勝太郎)
時雨降る今朝は右足の戦傷を両手(もろて)の中に暖めてをり (井上勝太郎)
中学にゆく吾の学資に関りて常に諍ひし父母なりき (井上勝太郎)
人間関係のトラブルも
冬至の日記には、井上勝太郎と、同じ石垣島事件で死刑になった田口泰正が部屋を訪ねてきたという記述がある。田口とは斎藤茂吉の研究をするなど、かなり親しくしている。
しかし、閉ざされた空間での人間関係は、トラブルが絶えなかったようだ。歌会のグループも解散したり、誰かが脱退したりしている。
ある歌会が解散になった理由を聞かれた井上勝太郎が、「自分のことは白ばくれて」ほかの人の責任のように言ったのを見て、冬至は不信感を持つ。さらに、勝太郎が回覧新聞を作ろうと冬至らに提案してきたものの、人に頼むばかりで自分は動かないのに、「発案者は実は私のことです」と回覧文に書き込んだところで、冬至は怒りを爆発させ、手紙を書いて送った。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。