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石川数正に焦点を当てて国宝・松本城天守を見る

黒い漆塗りの板壁と漆喰の白の組合せ、そして背景に連なる北アルプスの山々の連なりが美しい松本城。国宝になっている松本城天守は、石川数正・康長親子が造りました。徳川家康を主人公にした来年の大河ドラマでは、福岡出身の松重豊さんが石川数正を演じます。意外な御縁がつながった(?)ってことで、石川数正に焦点を当てて、国宝・松本城天守を楽しんでいきましょう。指南役は松本市教育委員会文化財課・国宝松本城研究専門員の宮島義和さんです。
 


石川親子が造ったとは言っても、「松本城が完成した時は康長だったんです。数正は松本に来て三年しか生きていませんでした。しかもそのうちの半分を、おそらく京都と朝鮮出兵のための基地となった肥前の名護屋城にいた計算になります。松本にいた時期は非常に短くて、三年で亡くなってしまって、残りの仕事は康長って感じになったんです」と、宮島さん。おおお。そうでしたか。しかし名護屋城が出てきて、これまた北部九州とのご縁が感じられます。石川数正は、名護屋城から普請見回り役にねぎらいの手紙を出しているんですって。
 


松本城の天守が戦国時代の造りであることの特徴として、まずは古い時代の石垣の積み方がなされていることが挙げられます。大きい石でもやや小さめサイズで、石と石の間に石ころが詰めてあります。
 


また鉄砲や矢を放つための長方形・正方形の「狭間」が100以上作られています。
 


そして天守の石垣と壁の境目に、出っ張った部分=内部からふたを開けると真下にいる敵に石を落とせる「石落し」が作られています。しかし「石落し」の使用法について宮島さんが「おそらく上がってくる敵を一斉射撃するために備えられたものだと考えられています。お城の中に石を入れておくのはたいへんなんで。せっせと階段上って石落しの前まで石を運ぶのはねえ」と、目からウロコ発言。
 


もとは徳川家康の家臣だった石川数正ですが、豊臣秀吉の家臣になり、関東の徳川を家康を見張り抑えるために松本に送りこまれ、松本城天守建築に取り組みました。「秀吉の黒好みをそのまま使って、下見板というのを黒く漆で塗って黒い城にそろえたと言われています。もともと大坂城は黒で、そこに映えるように金箔瓦を使っていました。松本城でも金箔瓦が、小さい金箔で、天守じゃなくて門のところでですが出ています」と、宮島さん。さらに「石川数正は秀吉のもとにいた人物ですから大坂城を見てるんです。安土城も見てるんです。ですから城というものをよく知ったうえで建ててるわけです。モデルがある、すでに。大坂城のことを描いて設計したりした可能性も十分考えられます」とも。はああ。そうかー。そんな風に考えられるのかー。
 


しかし、石川数正が徳川から豊臣についた理由は今も謎のままだそう。しかし移籍(?)ちょっと前に、家康が秀吉への贈り物の使いとして数正を立ててるので、そのあたりで何かしら秀吉と数正の接触はあったとみられるとのこと。ただ、古くから徳川に仕えていた懐刀だっただけにショッキングな事件だったのです。

石川数正の人物像について宮島さんに伺うと、「数正は秀吉のお伽衆といって、話し相手をする役目でした。もともと百姓から成りあがった秀吉は、あまりいろんな知識を持ってなかったのでお話をききたがっていました。それで近しい家臣にお伽衆を命じて、順番に話を聞くことをしていました。数正もその役目をやってたわけで、知的に高い武将という感じはしますね」とのお答え。
父に続き息子の康長も、豊臣家から官位をもらって役職もらって大事にされていました。なのになぜ、江戸時代に入っても生き延びている???
それは「関ヶ原の合戦の直前に徳川方について、関ヶ原の東軍の一派として徳川秀忠と一緒に上田城を攻めてるんです。真田が作った山城で負けてるんですけど、まあ、家康方についていたということで関ヶ原の後も取り潰されることなく松本藩として存在してたんです」ということだそう。
 


2月末までは毎晩、松本城のレーザーマッピングが行なわれています。

□ 松本城 →  https://www.matsumoto-castle.jp/
□ 新まつもと物語 →   https://visitmatsumoto.com/
□ 長野県公式観光サイト →  https://www.go-nagano.net/
□ 信州まつもと空港地元利用 →  https://www.matsumoto-trip.com/airport-arrival/

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