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袴田事件「獄中48年」再審が結審…死刑囚の弟を支え続けた姉の明るさ

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静岡市で起きた強盗殺人事件で、1980年に死刑が確定した袴田巌さん(88)のやり直しの裁判(再審)が5月22日、静岡地裁で結審する。その前日、RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で、RKBの神戸金史解説委員長が、巌さんを支え続けた姉・袴田ひで子さんの講演を取材したときのもようを伝えた。

袴田事件とは

袴田(はかまた)事件とは、1966年6月30日に、当時の静岡県清水市のみそ製造会社「こがね味噌」の専務宅から出火し、全焼した現場から刃物による多数の傷を受けた専務一家4人の遺体が発見された事件です。しかし、当時から「えん罪ではないか」と言われ続けてきて、弁護団が結成されて長い時間が経っています。

袴田事件弁護団が作成したビデオリポート「凍りついた魂 ~袴田巌に襲いかかった死刑えん罪~」(44分)の音声をお聴きください。

ナレーション:袴田事件とは、1966年に起きた強盗殺人放火事件を、警察・検察・裁判官により無実の袴田巌さんが犯人に仕立て上げられたえん罪事件である。本来であれば「こがね味噌強盗殺人放火事件」と言われる。加害者は不明、被害者は橋本さん一家4人。未解決のまま時効を迎えた。

ナレーション:2014年3月、静岡地裁は再審開始を宣言、同時に死刑と拘置の停止を決定。巌さんは解放された。この事件は、裁判所によって再審無罪の決定が出され、国家による賠償が実行されるまで、続くのです。

袴田巌さんは当時30歳、こがね味噌の従業員でした。元プロボクサーだったことから、犯人視されたと言われていて、日本ボクシング協会は「偏見によるえん罪ではないか」と活動を続けています。執拗な取り調べの中で、袴田さんは犯行を自白しますが、そのあとは一貫して否認しています。事件から1年以上経って、現場のみそタンク内から犯行当時の衣類とされる5点がみつかりました。最高裁で死刑判決が確定しています。

支え続けた姉・ひで子さんの明るさ

事件から48年後の2014年、静岡地裁は、証拠となった衣類について「後日捏造された疑いがある」とまで踏み込み、再審を決定しました。袴田さんは釈放されましたが、死を目の前にした長い獄中生活で、精神疾患を発症していました。

巌さんの3歳年上の姉、袴田ひで子さんは、弟の無実を信じて、ずっと支えてきました。巌さんは今88歳、ひで子さんと静岡県浜松市で暮らしています。91歳になった袴田ひで子さんが4月27日、福岡市のカトリック大名町教会大聖堂で講演しました。

カトリック大名町教会で開かれたイベント

袴田ひで子さん:巌は、48年刑務所に入っていましたがね、やっぱり真実は勝つんです。巌は無実なんです。5月22日にはもう最後の陳述でございます。

袴田ひで子さん:巌は今、何も申しません。刑務所に行ったことも話しません。再審開始になったことも薄々分かっているでしょうが、多分分からないかと思います。裁判の話は一切しませんの、私と巌はね。判決が出ましたら、分かっても分からなくても、巌とゆっくり話をしたいと思っております。それまではもうお預けてございます。そういうわけで、皆様に「再審開始になりました」というご報告とお礼を申し上げたくて、私は参りました。

91歳とは思えない袴田ひで子さん

福岡でこう話されました。91歳、びっくりするくらい声に張りがあって、ずっと長い間、どんなご苦労をされてきたんだろう、と思いながら聞いていました。

延々と続いた「死の恐怖」に精神疾患を発症

袴田さんは精神疾患で会話としてのやり取りがなかなか成立しづらいそうです。先週も新聞に「事件について尋ねても『神の儀式で袴田巌は勝った』などと妄想の世界に入り、心を閉ざす。一人で何かをつぶやき、妄想の世界にいる誰かと話しているように見える時もある」という記事が出ていました。

毎日新聞(5月17日)コラム記者の目
袴田事件 釈放10年 「死刑の恐怖」続く、非人道性=荒木涼子(エコノミスト編集部・元静岡支局)https://mainichi.jp/articles/20240517/ddm/005/070/005000c

ひで子さんは、巌さんの状況についても話をしています。

袴田ひで子さん:死刑囚になる前、未決の時にはしっかりしておりました。面会に行きまして、「巌が元気でよかったねー」と私達の方が本当に慰められておりました。

袴田ひで子さん:そういう状況でしたが、死刑囚になってからひどいショックを受けて、変なことを言うようになりましたの。「いや、そんな馬鹿言うんじゃない」とは言えないから、「ああ、そうかね、そうかね」と言って私は聞いておりましたがね。それがだんだんひどくなって、最後は面会拒否です。自分の世界に入っちゃって、妄想の世界に入って。

袴田ひで子さん:それでも私は毎月行きましたの。受付をしまして、刑務所の方が「お姉さんが面会に来たよ」と言っても、「姉はいない」とか言っておりました。でも私は「家族はまだ見捨てていないよ」というメッセージを送るために、刑務所に通っておりました。それが功を奏したかどうかわかりませんが、再審開始となりまして。本当に皆様のご支援があったればこそでございます。本当にありがとうございました。

元気に語りかける袴田ひで子さん

すごいですね。聴いていた皆さん、ひで子さんの言葉に引きこまれてしまいました。

再審請求に検察が抗告することの非情

再審請求を認めた最高裁の決定(2020年)ですが、全員が袴田さん救済の方向で結論を出しました。「再審を開かない」と考える人はゼロだったのです。最高裁5人の中で、「東京高裁で審理をやり直す」が3人で多数意見でした。そして「直ちに再審を開始」が少数意見ですけど、2人いました。明らかにおかしいと裁判所も見ています。

ところが、釈放から10年も経ってしまっているのは、判決に不服であれば検察が抗告できるという制度があるからです。再審請求については検察に「抗告を禁止すべきだ」という意見も根強くあります。こうした問題がこれだけ長引かせてしまった原因になっているのかなという感じがします。

「苦しみの年月」は私の人生と同じ長さ

私(神戸)は57歳、事件の半年後に生まれました。私の人生そのものと同じ長さが、巌さんとひで子さんの苦しんできた年月でもあるわけです。しかし、91歳なのになぜそんなに元気なのか、会場から質問が飛びました・

会場からの質問:91歳とは思えないそのお元気さ。ずっとそんな感じでやってこられたんですか?

袴田ひで子さん:私は巌に面会するため、足腰が弱っちゃいかんと思って、わりと健康には気をつけておりましたの。30歳前は好き勝手なことをしていましてね、この事件があってからガラッと変わりまして、健康に気を付けるようになりまして。50歳ぐらいからかな、運動し始めたんです。でも、年なんて関係ありませんよ!

袴田ひで子さん:皆さんもそうだと思うけど、年は関係ない。年だからどうのこうのと思わない。年のことなんて一切もう考えない。それから鏡を見て毎朝「ああ、美しい女だ、いい女だ」と思っております。ほほほ。本当はしわもあるけど、シミ隠しも買ってありますが、そんなことは絶対言わない。自分で鏡を見て「ああ、いい女だなあ」と思って、人様に迷惑がかかるわけではございません。愚痴や泣き言は、一切言わないこと。それがいいと思います。

袴田ひで子さんとRKB神戸解説委員長

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この記事を書いたひと

神戸金史

報道局解説委員長

1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。