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袴田事件「検察は正義より面子を選ぶのか」元サンデー毎日編集長が問う

1966年6月に静岡市(旧静岡県清水市)で一家4人が殺害された「袴田事件」で東京高裁は3月13日、地裁に続き再審開始を認めた。RKBラジオ『立川生志 金サイト』に出演した元サンデー毎日編集長・潟永秀一郎さんは、「正義より面子を選ぶのか」と、検察は特別抗告するべきではないと話した。  

検察は開かれた再審で争うべき

特別抗告の期限は3月20日ですが、検察はまだ態度を明らかにしていません。もし抗告したとしても棄却の公算が大きく、時間の無駄遣いにしかならないと思いますが、正義より面子を選ぶのでしょうか。

 

刑事訴訟法の再審に関する規定には欠陥があります。一つは、通常の刑事裁判では、検察側が持っている証拠を全て弁護士に開示するルールが設けられたのに、再審ではまだそのルールがないこと。

 

そしてもう一つが、再審の開始までに時間がかかり過ぎること。これは裁判所の決定に検察が不服を申し立てられるからだとして、日弁連などは禁じるよう求めています。1回でも裁判所が「元の判決はおかしい」と判断した場合、「疑わしきは罰せず」という刑事裁判の原則に従って、審理をやり直すべきだという考えです。再審が始まったからと言って無罪が決まったわけでなく、検察はそこで争えるわけですから、私はもっともだと思います。

検察が自ら再審手続きし無罪の判決

そもそも刑事訴訟法は「再審請求できる者」の筆頭に、検察官を挙げています。「間違いだったかもしれない」と考えられる事実が見つかったときは、立件した側こそやり直しを求めるべきだという考え方です。

 

実際、「日本で最初」とされる再審請求は、検察官が起こしています。1934(昭和9)年に新潟で起きた放火事件が、そうだとされます。元の捜査がずさんで、真犯人は別の男だと判断した検察官が、4年後に自ら再審の手続きをして無罪となっています。

 

上司もそれを止めるどころか、この検察官を励まし、再審無罪判決が出た時も「よくやった」とねぎらわれたと、本人が振り返っています。これこそ検察の正義だと思いませんか?

「捜査機関による証拠ねつ造の疑い」

では、あらためて袴田事件についてお話します。正直、いくら科学捜査が未熟な時代だったとしても、これは無茶苦茶な捜査と立証だと、再審は当然だと、皆さんも思うはずです。

 

袴田さんの再審は9年前、静岡地裁でいったん再審開始決定が出たのですが、東京高裁で覆り、最高裁が「審理が尽くされていない」と高裁に差し戻していました。今回、東京高裁が再審を認めた最大の理由は、逮捕から1年2か月後に、現場近くのみそ樽から見つかった衣類の血痕=付着した血の色です。

 

はっきり血痕だと分かるくらい赤かったんですが、みその中に1年以上浸かっていたのにおかしいと、最高裁もこの点について疑問を示していました。そして、弁護側が依頼した専門家の実験で赤味は消えることが立証され、高裁は「衣類は事件から相当な期間が経過したあとに第三者がタンクに隠した可能性が否定できず、事実上、捜査機関による可能性が極めて高い」と指弾しました。

 

警察による証拠ねつ造の疑いまで踏み込んだんです。ねつ造ですよ、ねつ造。ちょっと、ぞっとしませんか。そこまでやったのか、と。

袴田事件にはほかにも立証に問題が

おかしいのはそれだけではありません。そもそもこの事件の立証には、これ以外にも5つの問題があったんです。

 

一つは、自白の強要です。実は静岡県警では1950年代、強引な捜査と自白の強要で、重大な冤罪事件を4件も生んでいます。うち3件は死刑、もう1件も無期懲役の判決が出た後、全て無罪です。

 

そのすべてに関わった捜査幹部の部下が、まだ県警に残っていた当時の取り調べは過酷を極めたと言われ、袴田さんは19日間ぶっ続けに1日平均およそ12時間。最長16時間半――って、もう拷問ですよね。

 

次に、犯行時の衣服です。自白調書では「パジャマ」となっていましたが、裁判開始後にみそ樽から先ほどの衣類が見つかると、検察は「パジャマではなかった」と陳述を変えました。しかも見つかった服は小さく、弁護側は「袴田さんには入らない」と訴えますが、検察は服についているタグの表示を根拠に「みそ漬けになって縮んだ」と反論。ところが後に、検察がサイズ票としたタグは色を示すものだったと分かるんです。服は自供と食い違うわ、血痕の色もおかしく、サイズも合わない。もう着衣の立証は破綻していますよね。

 

三つめはDNA鑑定です。検察は、見つかった衣類のうちシャツの右肩部分に付いていた血痕と袴田さんのDNA型が一致した、という鑑定結果を出して、これが確定判決の大きな根拠になりました。ところが、2回目の再審請求の中で弁護側が改めてDNA鑑定したところ「一致しない」という結果が出て、静岡地裁は「無罪の明らかな証拠だ」と、再審開始だけでなく、袴田さんの釈放も認めています。

 

四つ目は「凶器」です。犯行に使われたのは、現場に残っていた「くり小刀」とされますが、遺体の傷は形も深さもバラバラで、中にはくり小刀では合わない傷もあったんです。

 

最後に「動機」です。検察側は金目当ての強盗殺人としていますが、4人の遺体に残った傷は「めった刺し」と言えるほど多く、1人7か所から最大15か所、首から上も刺されています。一般に、何度も繰り返し刺したり、顔など首から上を傷つけるのは、恨みなどがある場合と言われますから、状況が指し示す動機は「えん恨」です。金目当てなら、普通ここまではしませんから。

 

――とまあ、調べれば調べるほど疑問点が浮かび上がって、正直よくこの立証で死刑判決が確定したと思われませんか。誤審はどんな裁判でもあってはならないことですが、とりわけ被告の命を奪う極刑は慎重になるはずなのに。

「無罪主張」した1審担当判事のその後

実際、最初に死刑判決を出した1審・静岡地裁で、担当判事の一人だった熊本典道さんは、合議で「無罪」を主張したものの、裁判長を含む残り2人を説得できなかったと、2人の死去後に告白しています。

 

熊本さんはこの判決の翌年、袴田さんに死刑を下したことを悔やんで裁判官を辞め、弁護士に転身しますが、次第に酒におぼれ、「俺は無実の人を殺した。逮捕しろ」と警察で暴れるなど、トラブルを繰り返すようになっていきます。

 

ついには弁護士の職も失くして自殺も考えるようになるんですが、亡くなる前年、守秘義務を破って1審判決の内幕を明かし、再審を求める陳述書を最高裁に提出しました。ある意味、熊本さんも、事件の犠牲者の一人と言えるかもしれません。

逮捕から釈放まで48年

ただ、言うまでもなく、最大の被害者は袴田さん本人です。だって、死刑判決ですよ。ご存じの通り、死刑はいつ執行されるか、当日まで分かりません。刑事訴訟法は「判決の確定から半年以内」に法務大臣が執行を命じる、と定めていますが、実際には平均数年後。その間、死刑囚は毎日、「今日なのか」と怯えながら朝を迎えます。

 

それが、袴田さんのケースでは1980年の判決確定から、第2次再審請求で静岡地裁が再審開始と刑の執行停止を決定した2014年まで、実に34年続きました。この間、袴田さんは精神に異常をきたし、一時は親族や弁護団との面会にも応じなくなりました。

 

その辛さ、悔しさはご本人にしか分からないと思いますが、いつ執行されるのか怯えながら、無実の叫びが通らなかった絶望で、誰も信じられなくなったであろうことは想像できます。「もし、それが自分だったら」と考えると、私も壊れていただろうと、むしろ何も考えられなくなったほうがいいと。この精神異常は、心の防御反応だったと思います。

 

そんな袴田さんの無罪を信じて支え続けたのが、姉の秀子さんです。「やさしい巌がそんなことをするはずがない」と信じながら、地裁の死刑判決後に亡くなったお母さんの思いを引き継ぎ、結婚していた兄や姉を気遣って「ひとり身の私が」と、再審活動に奔走しました。

 

袴田さんが面会を拒んだ時期も「家族は見捨てていない」と伝えるために、拘置所に通い続け、やがて袴田さんもまた面会に応じるようになります。

 

その姿が支援の輪を広げて勝ち取ったのが、静岡地裁の再審開始と釈放の決定です。秀子さんは袴田さんを故郷の浜松市に連れ帰り、爪に火をともすようにして建てたマンションの1室に迎え入れました。逮捕から実に48年後。30歳だった袴田さんは78歳になっていました。

検察の正義が問われている

そして今、袴田さんは87歳、秀子さんは90歳です。東京高裁は再審開始を認めましたが、それでもやり直しの裁判はこれから。まして検察が最高裁に特別抗告すれば、早くても1年ほどの時間を費やします。

 

誰より「1日も早く」と願っているであろう秀子さんは、それでも気丈に「もう57年闘ってきた。ここで3年や5年延びても、どうということもない」と言います。「50年だろうが100年だろうが、無実の人間は正々堂々と戦えばいいということですよ」と。でも、人生の大半を弟の冤罪を晴らすために費やしてきた、その心中を思うと、胸が痛みますよね。

 

いま、検察に特別抗告断念を求める声は、関係団体はもとより、与野党の国会議員からも上がっています。検察はどういう結論を出すのか、改めて言います。検察の正義が問われていると思います。

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