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続・張家口からの脱出~台湾の窮地を救った元日本軍司令官・根本博

北京五輪の会場、中国河北省・張家口で77年前、現地の日本軍の司令官・根本博が、日本が降伏した直後もソ連軍と戦闘を続け、その間に在留邦人4万人を安全な場所へ脱出させたという話を、2月10日のRKBラジオ『櫻井浩二インサイト』で紹介した。その根本司令官の「その後」について、東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長が2月17日の同番組で解説した。

前回のおさらい

1945(昭和20)年8月15日、日本の敗戦が決まっても、根本は本国からの命令に背いて武装解除しないことを決断。国境線を越えて攻めてきた大軍のソ連軍との戦闘は8月19日から3日間続いた。根本の目的はただ一つ、ソ連軍の侵攻を食い止め、時間を稼いでいる間に4万人の居留民を安全に引き上げさせることだった。  

かつて戦火を交えた国民党軍から密使が根本のもとへ

邦人を無事、張家口から脱出させ、日本に帰国させた根本には、さらに任務が待っていた。中国の東北部に展開していた日本の兵隊を復員させることだった。根本は国民党側との直接交渉によって、35万人の将兵の帰国の約束を取り付けた。日中戦争の間、蒋介石率いる国民党の軍隊と戦火を交えてきた日本軍だが、一方で、両方の軍には互いに通じ合えるパイプも存在した。蒋介石は日本への留学経験がある。また、日本の陸軍士官学校に在籍した国民党軍の将校もいた。

国民党が日本の将兵を帰国させることに応じたのは理由がある。毛沢東率いる共産党の軍隊、さらにはその後ろ盾の、ソ連軍の存在があった。日本軍を一刻も早く中国大陸から帰国させ、共産党との戦いに注力したいという政治的思惑があったのは確かだ。

すべての兵隊の復員を見届け、根本が最後の帰還船に乗ったのは、1946(昭和21)年8月だった。軍人としての根本博の人生は、ここで終わったかにみえた。

しかし、思いがけない形で、軍人・根本博がよみがえる。日本に戻って2年余りが経ったある日、見知らぬ男が根本に接触してきた。男は、国民党の密使。根本に対し、台湾に渡り、蒋介石率いる国民党の軍隊を支援するよう懇願したという。蒋介石やその周辺は根本の性格、さらに作戦立案・指揮能力を知っていたのだ。

このころの東アジアの情勢だが、朝鮮半島は南北で二分され、朝鮮戦争の前夜だった。また、日本の敗戦によって、台湾の主権者は日本から中華民国(=国民党政府)になった。一方で、中国大陸では蒋介石の国民党と、毛沢東の共産党の内戦が続いていた。やがて形勢は共産党に傾き、追い詰められた国民党は台湾に逃れていた。

根本は台湾へ向かう決意をした。

金門島の台湾支配は根本の功績

1949年6月、密使の訪問を受けた根本は、家族にも本当のことを話さないまま、宮崎県延岡の港から小さな船に乗って台湾に渡り蒋介石と再会、劣勢の国民党軍への支援を約束した。張家口から逃れた邦人らの帰国に協力した、国民党軍への恩を返すためにほかならなかった。

蒋介石の求めに応じ、根本は国民党軍の軍事顧問として、台湾の対岸にある中国福建省へ渡った。国民党と共産党の内戦は、毛沢東の共産党軍の勝利で終わろうとしていた。台湾に攻め入ろうとする共産党の軍隊に福建省を奪われれば、台湾までも共産党の手に落ちることが目に見えていたからだ。

根本が目を付けたのが、金門島だ。金門島は、台湾本島から180キロもあるが、中国本土からはわずか2キロしか離れていない。私も取材で何度か、金門島に行ったことがある。中国大陸側の街は目の前。向こう岸のビル群が手に取るように見える。

根本が立てた作戦は①敵の軍隊の金門島上陸を容認する=おびき寄せる②日没後、敵の部隊が上陸に使った船をすべて焼き払う。これで敵は補給用、また退く際に使う船がなくなる③そして、上陸した敵の部隊を包囲し、奇襲する――というものだった。作戦は成功に終わる。毛沢東は台湾奪取、台湾を含めた統一を断念せざるを得なくなった。

金門島は70年あまりが経った今も、中国と台湾の境界線になっている。そういう意味で言うと、今日の「中国と台湾の構図」に至ったのは、張家口からの邦人脱出にさかのぼることができるかもしれない。

つりざおを肩に帰国した根本「何もできず」とうそぶく

1949年10月、毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言。一方の蒋介石は台湾を拠点ににらみ合う。中台分裂が決定づけられた。根本は1952(昭和27)年=日本の主権が回復したサンフランシスコ講和条約署名の翌年6月に帰国する。

根本の帰国を報じる新聞記事から引用する。

元華北派遣日本軍司令官陸軍中将 根本博氏(62)が25日午前10時10分、羽田着のCAT機で3年ぶりに台北から帰国した。つりざおを肩にパナマ帽、白い麻の背広姿の根本氏は中国代表部員(=現在の台湾の外交官ですね)と打ち合わせたのち、出迎えの妻、四男らに囲まれながら都下の自宅へ向かったが、記者団に次のように語った。(中略)「昭和24年6月24日夕、私は中国人(註・国民党関係者)の案内で延岡港から小型船に乗って渡台した。目的は蒋介石総統がカイロ会談で天皇制の危機を救ってくれたことに報いるためだ。福建省のアモイ作戦にも行ったが、何事もできず厚遇に対して申し訳ない。最近では政治、軍事とも落ち着いてきたので帰国することにした」(1952年6月25日・毎日新聞夕刊)
「つりざお」には、深いエピソードがある。台湾へ密航したとき、根本は東京の家を出る際、家族に「釣りに行ってくる」と言い残している。だから、魚釣りに行った帰りのように装って羽田空港に降り立ったのだ。ユーモアも感じさせる根本の人間としてのスケールの大きさが伝わってくる。

根本は帰国時「何もできず、申し訳ない」と語っているが、共産党との内戦で、日本人が国民党に加担したことによる摩擦を避けるためにそう言ったのだろう。あえて真実を語らなかったのだ。

これらの話は、根本の生涯を描いた2冊の本に詳しい。

「戦略将軍根本博ある軍司令官の深謀」(小松 茂朗著・光人社)

「この命、義に捧ぐ台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」(門田 隆将著・角川文庫)
もし、毛沢東の軍隊が台湾まで支配下に置いていたら、日本を含む今日の東アジアの安全保障上の地図は、大きく変わっていたのは間違いない。それを阻む作戦に、日本人が関わっていた。また、その端緒が現在、オリンピック競技が行われている中国・張家口だった。歴史はとても奥が深い。つくづくそう感じる。

飯田和郎(いいだ・かずお) 1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。
 

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