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セピア色の便せんに遺された息子への最期の言葉「子にも孫にも叫んで頂く」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#1

セピア色に黄ばんだ便箋にぎっしりと鉛筆で書かれた文字。幼い息子に宛てた遺書には ところどころ、漢字に読み仮名が振ってあった。

収蔵庫に眠っていた21枚7000字の遺書

福岡県の中央に位置する嘉麻市。かつて福岡県が日本有数の産炭地であったころ、炭鉱で働く多くの人たちで賑わったところだ。嘉穂南部1市3町が合併して(山田市、碓井町、稲築町、嘉穂町)2006年に嘉麻市となった。旧稲築町にかつてあった山野炭鉱では1965年に237人が犠牲となったガス爆発事故があり、私は事故から50年を迎える2015年に炭鉱事故のその後をテーマにした番組を制作したのをきっかけに、折りに触れ、嘉麻市を訪れるようになった。

漢字には読み仮名がふられていた

嘉麻市碓井平和祈念館は、合併前の1996年に開館した戦争資料館だ。2019年の夏。たまたま訪れた祈念館で、企画展が行われていた。「スガモプリズン 21世紀への遺言」。そこで私の目を引いたのは、直筆の遺書だった。
 遺書を書いたのは、藤中松雄。旧碓井町の出身だ。1950年4月7日未明、BC級戦犯としてスガモプリズンで命を絶たれた。享年28。展示されていたのは、両親や妻、幼い息子に宛てた全部で21枚の遺書。便箋に書かれた文字は華奢で、丁寧な筆致だった。当時ペンネームが流行したのか、戸籍名は「松雄」だが、遺書には「松夫」との記載もある。

息子に宛てた最期の言葉

(藤中松雄の遺書より)
「だから父は 孝一、孝幸ちゃんに願って止まない事は 如何なることがあっても
『戦争絶対反対』 
を命のある限り そして子にも孫にも叫んで頂くと共に全人類が挙って願う
『世界永遠の平和』
のために貢けんして頂き度い事であります」

「このまま眠らせるわけにはいかない」

展示を企画したのは、学芸員の青山英子さんだ。2010年に採用された青山さんの仕事は収蔵する資料のデータベース化だった。藤中松雄の遺族は1950年代からマスコミの取材に応じている。週刊誌や書籍で取り上げられていることもあり、遺書の存在は地元では知られていた。そのため平和祈念館創設をきっかけに遺族から寄贈を受け、開館時には展示されていたという。しかし開館から10数年が経って青山さんが着任したときには、展示物の入れ替えで収蔵庫に収められていた。
膨大な戦争資料をひとつひとつ確認する作業の中で、青山さんは棚の高いところに一つだけ、「遺書」と表書きされた封筒に入った藤中さんの資料一式があるのに気付いた。しかし中身を確認したのは、2,3年後、ほかの資料の作業がすべて終わった後だった。死を目前に意識した人が最後に綴ったその文書を見るには、気持ちを整える必要があった。


嘉麻市碓井平和祈念館 学芸員 青山英子さん
「藤中さんの身に起こったことは、“理不尽”という言葉では軽い。今でも遺書の内容を思うと目には涙があふれてくるし、喉のあたりが熱くなります。この遺書を手に取ったことで、このまま眠らせるわけにはいかない、収蔵庫に置いていたら眠らせてしまう。重い資料をいただいたと思いました」

藤中松雄の遺書は、2018年に平和祈念館の隣にある嘉麻市織田廣喜美術館で展示されたスガモプリズンの版画を解説する参考資料として、ふたたび展示の機会を得たあと、
翌年、「スガモプリズン 21世紀への遺言」の企画として長く展示されることになった。

(エピソード2へ続く)

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

*本エピソードは第1話です。
ほかのエピソードは関連リンクからご覧頂けます。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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