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「すぐに帰ってくるから大丈夫」スガモプリズンで”最後の死刑”~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#3

1950年4月7日、スガモプリズンで最後の死刑が執行された。そのうちのひとりが藤中松雄だった。

藤中松雄の遺族を訪ねて

(福岡県嘉麻市)

 

福岡県の嘉麻市碓井平和祈念館に藤中松雄の遺書があることを知った私は、ドキュメンタリー番組の制作を視野に、まずご遺族に会うことにした。松雄の次男・孝幸さんが取材に応じてくださった。旧碓井町のご自宅は、昭和の時代に建てられた日本家屋が立ち並ぶ一角にあった。近くに麻生吉隈炭鉱があり、鉱害対策で同じ時期に一斉に建て替えられたのだという。

農家の4男 19歳で藤中家の婿養子に

(兄の出征時 最上段左から二番目が松雄)

 

藤中松雄は、1921年(大正10年)4月10日生まれ。生家は大きな農家で、四男だった松雄は太平洋戦争の前の年、19歳で藤中家に婿養子に入った。妻ミツコはふたつ年下で、結婚当時は17歳だった。

終戦後に次男の孝幸さんが生まれた

(藤中松雄の葬儀 中央が妻ミツコ)

 

次男の孝幸さんは1947年生まれ。松雄が終戦後、故郷へ帰ってから授かった息子だ。父が命を絶たれたのは3歳の時。生まれて半年後にスガモプリズンに収監された父の記憶はない。松雄の葬式の写真が残されているが、よだれ掛けを身に着けた孝幸さんは、カメラマンの方を向いて無邪気にふるまっている。27歳で夫を失った母ミツコは、父のことはあまり話さなかったという。

 

藤中孝幸さん
「お袋はね、長年一緒におったけどそういう話は全然せんやったですよ。親父の話は。ただ、家におって連れて行かれる話とか、ただあんたをおぶって面会に行ったっていう話しか、せんやったもん」

 

孝幸さんも、戦犯に問われた父のことは話さなかった。

 

藤中孝幸さん
「18の時、履歴書を書いたときに親父の欄があったけん、戦死って書いたんよね。戦死って。そしたら年が合わない。1945年に終戦だけど、俺、1947年生まれやから。
そんなで聞かれたことがあって、その時初めて戦犯で亡くなったっていうことを面接受けた人に言ったことがある」

拘束時、松雄は家族に「すぐ帰ってくるから大丈夫」

母ミツコは、2008年に85歳で亡くなった。孝幸さんは母から、父は「石垣島事件」で戦犯になったと聞いていた。

 

(仏壇に手をあわせる次男の孝幸さん)

 

藤中孝幸さん
「(拘束されて)行くときにね、家族のものに『すぐ帰ってくるから大丈夫』っていう言い方をして行ったらしい。それで親父もそこまで深く、石垣島のことで自分が何かされることはないんじゃないかという考えで行ったんやないかな。」

 

父のことはあまり知らないという孝幸さんに、私は帰り際尋ねてみた。
「これから東京の国立公文書館に行って、お父様のことを色々調べようと思いますが、その結果をお知りになりたいですか?」

 

孝幸さんは、「おう、知りたい」と答えた。

(エピソード4へ続く)

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

*本エピソードは第3話です。
ほかのエピソードは関連リンクからご覧頂けます。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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