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先が見えない現状でも“復興後”を語る「古美術店をまたこの地で…」~記者が見た能登半島地震:被災地取材リポート

元日に最大震度7を記録した能登半島地震は発生から2週間以上が経過した現在も、多くの人が元の生活に戻ることができていない。JNN取材団の一員として福岡から派遣された記者が目の当たりにした被災地の実情はー

輪島朝市を目指す、その道中も…


福岡から応援取材で被災地入りした私が最初に拠点にしたのは石川県金沢市。12日午前5時、その拠点を出発して輪島市に向かった。まだ辺りは暗く、強風で雨も降っていた。目指したのは大きな被害に見舞われた「輪島朝市」。安否不明者の捜索を取材する予定だった。高速道路に乗って北に進むと少しずつアスファルトに亀裂が見られるようになってきた。さらに進むと目的地の手前で「災害通行止」の表示。高速道路を降りた下道は、同じく北に向かう車で渋滞していた。自衛隊や警察、消防の車両のほか、給水車や電気の復旧業者の車も目立つ。ブルーシートがかけられた家屋が見えてきたと思ったら、周囲の景色が一変した。瓦が落ちた家、ひび割れた道路。さらに進むと、潰れるように損壊した建物が次々に現れる。ここも潰れている、ここも、、、。

輪島朝市は焼け野原、復旧の困難さを目の当たりに


輪島市に入ると、石畳は波を打つようにゆがみ、ガラスも散乱。固定されていた自動販売機は斜めに傾いた状態で止まっている。地震の被害の大きさ、エリアの広さに言葉を失う。「復旧にはかなりの時間がかかるだろう」そう思い知らされた瞬間だった。ようやく到着した「輪島朝市」は大規模な火災で一面焼け野原となっていた。骨組みだけとなったビル、焼け焦げた車、トタン、がれき。あたりに漂う焦げたにおいが鼻を刺激した。道路脇には雪が残り、雨が降る中をスコップを持って自衛隊員たちが現場に入っていった。愛知、大阪、広島などから応援に駆けつけた消防や警察の姿も。安否不明者の捜索に当たっていた。

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この記事を書いたひと

浅上旺太郎

山口県出身。九州大学法学部卒。2015年入社。本社報道部、現在の情報番組部を経て2022年6月から北九州報道制作部。福岡県警・北九州市政などを担当。最も印象に残る取材は2017年7月の九州北部豪雨。