松尾潔、広島・長崎のイスラエルへの対応について「明暗がはっきりと出た」
今年も原爆投下日の8月6日に広島、9日に長崎で平和祈念式典が開かれたが、イスラエルをめぐって2市の対応が異なったことが話題となった。音楽プロデューサーの松尾潔さんは8月12日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で「コントラストとして明暗がはっきりと出た」とコメントした。
お茶を濁したエマニュエル駐日米国大使
広島・長崎の平和祈念式典の話をする前に、先週8月9日、東京芸術劇場で長崎出身の野田秀樹さん率いるNODA・MAPの新作舞台「正三角関係」を観てきた話からします。ロシア文学の最高傑作「カラマーゾフの兄弟」というドストエフスキーの作品がありますが、これをモチーフにカラマーゾフならぬ唐松族を登場させるという、何とも野田さんらしい仕掛けです。松本潤さん、男役で長澤まさみさん、永山瑛太さんの3人が兄弟を演じました。
3人の職業が「花火師」というところがミソで、太平洋戦争の終わりの長崎が舞台になっているということがだんだん分かってきて、8月9日を迎えるというストーリー。となるとこの花火師というのも、もしかしたら「オッペンハイマーへの日本からの回答なのか」というような。まあそこは明らかにされないんですけれども。
たまたま僕は8月9日に舞台を見ました。その日は長崎で平和祈念式典が例年通り催されたんですが、いろんな方の欠席が目立ちましたね。その理由として、イスラエルの駐日大使を招待していないということで「参加してしまうとその政治姿勢を認めることになってしまう」というようなことをエマニュエル駐日米国大使が言っていました。そのエマニュエル氏は長崎に行く代わりに、東京の増上寺で開かれた長崎原爆殉難者追悼会に参列しました。僕は何かちょっとお茶を濁したようにも見えてしまいました。
長崎市長と広島市長のコントラスト
今回の長崎市長の決断はずいぶん前から明らかにしていたことで、これを最後まで貫いたのは本当に勇気ある行動を取ったと思います。対照的だったのは6日の広島での平和祈念式典。僕は松井市長の態度は良くも悪くもコントラストとして長崎との差が出たと思いました。僕はたまたま平和祈念式典の数日前に広島であった音楽祭の審査員を務めていて、松井市長と向き合うタイミングがありました。
そのときに、この件について話すチャンスは得られなかったんですが、そういう会合に出てしまったことさえモヤモヤしてしまうような気持ちでした。ただ、広島の祈念式典では松井市長ではなく湯崎知事のスピーチが胸に残るものでした。スピーチの中でも印象的だった部分を紹介します。
「先般、私は数多の弥生人の遺骨が発掘されている鳥取県青谷上寺地遺跡を訪問する機会を得ました。そこでは頭蓋骨や腰骨に突き刺さった矢尻など、当時の争いの生々しさを物語る多くの殺傷痕を目の当たりにし、必ずしも平穏ではなかった当時の暮らしに思いを巡らせました。翻って現在も、世界中で戦争は続いています。強い者が勝つ。弱い者は踏みにじられる。現代では、矢尻や刀ではなく、男も女も子供も老人も銃弾で撃ち抜かれ、あるいはミサイルで粉々にされる。国連が作ってきた世界の秩序の守護者たるべき大国が、公然と国際法違反の侵攻や力による現状変更を試みる。それが弥生の過去から続いている現実です」
この後に核兵器のことに言及する湯崎知事のスピーチ、本当に素晴らしい内容です。インターネットで読むこともできますし、動画も見ることもできますのでぜひお目通しいただきたいと思います。
「人類が核兵器の存在を漫然と黙認したまま被爆者を一人、また一人と失っていくことに耐えられない」 湯崎知事あいさつ 2024年・広島平和記念式典(RCC NEWS DIG)
僕も先日広島に行った際、原爆慰霊碑を訪れました。碑には「過ちは繰り返しませぬから」と刻まれていますよね。自分が50代になったから、人の親になったからということもあるんでしょうが、若いときよりも何か切実度を増して感じてしまうのは、今の時代にそう思わせる何かがあるんじゃないかと思わざるを得ないですね。
広島市・平和公園の原爆慰霊碑
「フェアかどうか」を基準に
今の世界が向き合っている大きな問題としてガザの侵略があります。いろんな見方があるでしょうが、僕は無差別の大量殺戮=ジェノサイドに見えて仕方がありません。アメリカを始めとするG7の見解としては「いやいや、これはパレスチナ側のハマスが仕掛けてきたことに対しての正義あっての防衛の一つだ」というような見解ですよね。
ゆえに今回、長崎市がイスラエル大使を平和記念式典に招かなかったことに対して反対の意を唱えたんでしょう。G7、EUの代表などが一斉にボイコットするのを見ると「正しいとは何か」「正義とは何か」というのは本当に難しいなと思いますね。
この番組で、戦争についてだけでなく再三いろんな時に言ってきましたが、正義とか正しさというのは本当に見つけにくいのが人の世だなと痛感するんですね。ならば、まだ「公平かどうか、公正かどうか」言い換えれば「フェアかどうか」ということを基準にするのはどうだろうと提案しているんですね。
その軸で考えると、例えばロシアのウクライナへの侵攻というのはG7諸国も「あれはよくない。だけど、イスラエルのはまだ義がある」と言っていますが、公平かどうかということで言うとちょっとその見方も変わってくるんじゃないかなと思うんです。
つまり「ウクライナにNATOが足を進めたことによって、それに脅威を感じたロシア」という見方もできる中で「でもやっぱりロシアが悪い」というのであれば、イスラエルだって同じじゃないの? と僕は相似形に見えて仕方ないんですよね。
そう見ることが僕にとってはフェアに見えるから、今もマイクに向かってこういう話をしているわけです。大切なことは何かというと議論することですよね。日本にいるとキーウのことにしてもガザのことにしても、ちょっと距離が離れています。ましてや自分の身近にロシア人、ウクライナ人、パレスチナ人、イスラエル人の知り合いがいないと、遠くの出来事のような感じがしてしまうかもしれません。
ですが、わが事として手繰り寄せるような気持ち、そして分からないことがあったら、見過ごすことをせずに「これってなぜ起きているの?」と、自分よりその事情に明るそうな周りの人に聞いてみてほしいのです。
そういうことをしないと、気がついたときにはいろんなことが進行して、自分の家族、場合によっては自分自身が戦地に赴かないといけないような時がきてしまうかもしれません。それぐらいの緊張感を持つべきタイミングじゃないかなと思います。
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