2020年、新型コロナウイルスの影響を受けて3ヶ月遅れで開幕した今年のプロ野球。無観客という異例の開幕はあまりにも静かで記憶に新しい。予防策の徹底や関係者の努力によって感染予防ガイドラインを作り上げ、徐々に観客が集まり、多くのドラマが生まれ、様々な記録が更新された。プロ野球月間勝利数の記録を18年ぶりに更新し、月間22勝を達成した我らが福岡ソフトバンクホークスは10月の勝率を8割4分6厘とし、驚異的な終盤の強さで3年ぶりのパ・リーグ制覇を成し遂げた。
ホークスに関しては個人成績でも日本記録、いや、世界記録を残した選手がいる。プロ3年目の周東佑京選手(24)だ。これまでの12試合連続盗塁の日本記録を更新すると、すぐさま次の試合で盗塁を決め、13試合連続盗塁成功という世界記録保持者になった。50メートル走を5秒7で駆け抜ける韋駄天は、バッターボックスから1塁ベース到達まで3秒8というから内野ゴロでも取ってからすぐに投げないとセーフになる程の俊足である。無論、盗塁は塁に出ないことには果たせない記録であるから、バッターとしても進化しているといえよう。
周東選手は1996年群馬県生まれ。お父さんの従兄弟にバルセロナオリンピック(1992年)110メートルハードル日本代表の岩崎利彦氏がいる。周東選手自身は『生まれる前の事ですし、親からなんとなくしか聞いてなくてよく知らなんです』というが、俊足のDNAは確かに継承されているのだろう。
今年の連続盗塁の世界記録を打ち立てるまでの中には苦労と葛藤が多くあったと思われる。少し振り返っていこう。
2018年にプロ野球選手として1年目を迎えた周東選手は背番号三桁の育成選手という立場だった。ホークスの同学年の中で唯一一軍出場がなかったというプロ1年目シーズンの悔しさと焦りの中で、プロ2年目の2019年シーズンは一軍に出られる権利を獲得するために支配下登録(育成選手では一軍の試合に出られない)を勝ち取らなければならなかった。1年目のオフに松田宣浩選手に志願し参加したグアム自主トレで体を作り、2月の春キャンプでは背番号三桁ながらも圧倒的なスピードで他を圧倒していた。3月に支配下登録(背番号23)を見事勝ち取り、4月にプロ初出場を果たした。
球が速い投手には"いつから球が速くなったのか?"、背が高い大きな選手には"何年生から何を食べて大きくなったのか?"等と聞いてみたくなるものだが、当然足の速い周東選手にも"いつから足が速くなったのか?"という質問をぶつけたことがある。彼は何度となく聞かれた質問であろうから『小さい頃から速かったです。誰にも負けなかった記憶があります。』と即座にキッパリと答えた。
こういう話を聞くと少し意地悪なインタビュアーとしての本能がはたらき、"本当に誰にも負けなかったんですか?"となげかけた(笑)。すると、少し気まずそうな表情で"いや、誰にもというのは嘘です(笑)。僕は体が小さくて、小学生まではずっと一番だったんですけど、中学に入って周りがどんどん背が高くなって僕だけ身長が伸びなくて・・・・。バスケットボール部のアライ君にはどんなに頑張っても勝てなかったです。"と、ハニカミながら漏らしたのである。野球界のスピードスターが最後まで勝てなかったバスケ部のアライ君とは大学生の頃に成人式で再会したらしいが、足の速さ云々については特に話さなかったという。現在、周東選手は179センチにまで伸びた身長でアライ君よりも速くなったに違いないが、それと共に、アライ君は「世界記録保持者が勝てなかったライバル」となった。
ホークスに関しては個人成績でも日本記録、いや、世界記録を残した選手がいる。プロ3年目の周東佑京選手(24)だ。これまでの12試合連続盗塁の日本記録を更新すると、すぐさま次の試合で盗塁を決め、13試合連続盗塁成功という世界記録保持者になった。50メートル走を5秒7で駆け抜ける韋駄天は、バッターボックスから1塁ベース到達まで3秒8というから内野ゴロでも取ってからすぐに投げないとセーフになる程の俊足である。無論、盗塁は塁に出ないことには果たせない記録であるから、バッターとしても進化しているといえよう。
周東選手は1996年群馬県生まれ。お父さんの従兄弟にバルセロナオリンピック(1992年)110メートルハードル日本代表の岩崎利彦氏がいる。周東選手自身は『生まれる前の事ですし、親からなんとなくしか聞いてなくてよく知らなんです』というが、俊足のDNAは確かに継承されているのだろう。
今年の連続盗塁の世界記録を打ち立てるまでの中には苦労と葛藤が多くあったと思われる。少し振り返っていこう。
2018年にプロ野球選手として1年目を迎えた周東選手は背番号三桁の育成選手という立場だった。ホークスの同学年の中で唯一一軍出場がなかったというプロ1年目シーズンの悔しさと焦りの中で、プロ2年目の2019年シーズンは一軍に出られる権利を獲得するために支配下登録(育成選手では一軍の試合に出られない)を勝ち取らなければならなかった。1年目のオフに松田宣浩選手に志願し参加したグアム自主トレで体を作り、2月の春キャンプでは背番号三桁ながらも圧倒的なスピードで他を圧倒していた。3月に支配下登録(背番号23)を見事勝ち取り、4月にプロ初出場を果たした。
球が速い投手には"いつから球が速くなったのか?"、背が高い大きな選手には"何年生から何を食べて大きくなったのか?"等と聞いてみたくなるものだが、当然足の速い周東選手にも"いつから足が速くなったのか?"という質問をぶつけたことがある。彼は何度となく聞かれた質問であろうから『小さい頃から速かったです。誰にも負けなかった記憶があります。』と即座にキッパリと答えた。
こういう話を聞くと少し意地悪なインタビュアーとしての本能がはたらき、"本当に誰にも負けなかったんですか?"となげかけた(笑)。すると、少し気まずそうな表情で"いや、誰にもというのは嘘です(笑)。僕は体が小さくて、小学生まではずっと一番だったんですけど、中学に入って周りがどんどん背が高くなって僕だけ身長が伸びなくて・・・・。バスケットボール部のアライ君にはどんなに頑張っても勝てなかったです。"と、ハニカミながら漏らしたのである。野球界のスピードスターが最後まで勝てなかったバスケ部のアライ君とは大学生の頃に成人式で再会したらしいが、足の速さ云々については特に話さなかったという。現在、周東選手は179センチにまで伸びた身長でアライ君よりも速くなったに違いないが、それと共に、アライ君は「世界記録保持者が勝てなかったライバル」となった。
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