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「心残りは敏子のこと」特攻とともに打ち砕かれた京大生の恋、人生のすべてをかけ海面15メートルを這うように飛行

太平洋戦争末期、多くの若者たちが特攻隊員として出撃し命を落としました。思いを寄せた人を残し特攻に向かった一人の隊員の足跡が明らかになりました。

アメリカ公文書館に残る「特攻作戦」の映像

アメリカ軍の戦艦に突っ込む戦闘機。旧日本軍による特攻作戦です。大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」がアメリカの公文書館から入手した映像には、壮絶な最期の瞬間が記録されています。

提供:「豊の国宇佐市塾」

154人の若者が飛び立った滑走路跡

宇佐市には、特攻の歴史を伝えるものが今も残されています。

RKB岩本大志記者
「まっすぐ一直線に伸びる道路があります。ここはかつて滑走路だった場所で特攻によって多くの若者がここから飛び立っていきました」

154人には家族や恋人がいた

大分県宇佐市には、「宇佐海軍航空隊」という旧日本海軍の滑走路がありました。滑走路の近くにある石碑には宇佐市から出撃した特攻隊員154人の名前が刻まれています。

公文書や映像史料の収集や分析を行う「豊の国宇佐市塾」の平田崇英代表は、「国と国ではなく、そこで死んでいっている人が、みんな一人一人家族がいて恋人がいて兄弟がいて、かけがえのないその人の命だけではなくて、家族の命までみんな担っている。一人死ぬということは大変な数の人の喪失感をうむ」と話します。

22歳で特攻した京大生

福岡県遠賀町(旧遠賀郡遠賀村)出身の旗生良景(はたぶ・よしかげ)少尉もこの滑走路から飛び立った特攻隊員のひとりです。旗生少尉は7人兄弟の二男。現在の福岡高校に通っていた学生時代はラグビー部に所属、友人からの信頼も厚かったといいます。1942年(昭和17年)、京都帝国大学経済学部(現・京都大学)に入学。その約1年後の1943年(昭和18年)に学徒出陣し、特攻によって22歳で亡くなりました。

破魔矢を刺さなかった理由

宇佐市から鹿児島県の串良基地へ出発する前に撮影された写真。多くの隊員の背中には、宇佐神宮の破魔矢が刺さっていますが、旗生少尉の背中にはありません。「自分たちが国を守る」という意味が込められていた破魔矢。豊の国宇佐市塾の藤原耕さんは、破魔矢を刺さなかった旗生少尉の心の内を推し量ります。

「豊の国宇佐市塾」 藤原耕さん
「心残りがあったとしかいいようがありません。周りの空気に逆らって自分なりの・・・意思表示でもないし、『無意識』に近いんでしょうね」

死を前にして募る恋人への思い

旗生少尉の「心残り」とは何だったのか。その一端が、特攻に向かう前に書かれた日記に残されていました。

旗生少尉の日記
「きょうは未だ生きております」

串良基地に着いた日から特攻に向かう直前まで、毎日同じ書き出して始まる日記には女性の名前も書かれていました。

旗生少尉の日記
「心に残るは敏子のことのみ。弱い心をお笑いください。然し死を前にして敏子に対する気持ちの深さを今更の様に驚いています。人間の真心の尊さを思ってください」

「敏子」さんとは、旗生少尉の高校時代の友人の妹。鹿屋航空基地史料館の展示説明には、高校生のころに敏子さんとの間に愛情が芽生えたと書かれています。

敏子さんは見送りに間に合わなかった

宇佐市から串良基地に出発する前日、旗生少尉は家族に向けて電報を打ちます。

電報「チチハハアニサン ミナ アス スグコイ」

「豊の国宇佐市塾」の藤原耕さんによると、旗生少尉の家族は出陣式に間に合い見送りができたものの、恋人だった敏子さんは間に合いませんでした。

「豊の国宇佐市塾」藤原耕さん
「友人経由で電報を打っていたことから敏子さんへの電報の到着が遅れたという事情があったようです」

1945年4月28日、旗生少尉は思いを寄せる人を残したまま、特攻へ向かうことになりました。

出撃直前の最後の日記
「只今より出発します。何も思ひ残すことはありません。(中略)こうしているのもあと暫くです。さようなら元気で」

途切れたモールス信号

串良基地から出撃した旗生少尉。
大東亜戦争戦闘詳報(防衛研究所戦史研究センター所蔵)によると、

午後6時52分「敵艦船見ユ」
続けざまに「我戦艦ニ体当タリス」というモールス信号を送ります。
そして、6時54分に信号は途切れました。「ツー」

明らかになった旗生少尉の最期

旗生少尉が乗った機体は、どんな最期を迎えたのか。日本側とアメリカ側の資料を照らし合わせると新たな事実が分かりました。

アメリカ側の資料では、日本側の資料に記載された同じ時刻に、2つの機体を撃墜したと書かれています。

「豊の国宇佐市塾」織田祐輔さん
「(アメリカの資料には」対空射撃を行って18時52分に1機目を撃墜した。18時54分に2機目も撃墜した、と書かれています。実際に米軍が日本軍機見つけたのが18時51分、旗生少尉機が『テキカンミユ』と打っているのがその1分後。18時54分に旗生少尉機が突っ込んだか落ちたかしている。米軍の資料をみるとその時間前後に2機とも落としている。おそらく旗生少尉の乗った飛行機に関しては、アメリカの軍艦が攻撃して対空砲火で打ち落とされたのではないか、ということが分かります。アメリカ側の記録を見る限りでは『体当たり』は成功していない」

レーダーをかいくぐって飛行した旗生少尉

アメリカ側の資料をさらに読み込むと、「50フィート」という文字がありました。50フィートは、約15メートルです。旗生少尉が乗った機体は、敵のレーダーに見つからないよう海面から15メートル付近を這うように飛行していたことが分かります。

「豊の国宇佐市塾」織田祐輔さん
「15メートルって家の3階くらいの高さ。家の3階くらいの高さだと目標物見つけることはできない。その状況でアメリカ軍のレーダー網をかいくぐって、かつ沖縄近海の米軍のところまで旗生少尉はナビゲーションできています。人生の最後。自分が生きてきた人生の全てを最後のこの一瞬に賭けているので、自分が生きた証、最後の総決算、持ち寄る力を全て出し切ってこういう風になったのはないか」

旗生少尉の機体とみられる映像

旗生少尉が乗っていたとみられる機体の映像も見つかりました。特攻の約2週間前1945年4月15日にアメリカ軍が撮影したものです。

「豊の国宇佐市塾」織田祐輔さん
「旗生少尉の飛行機をめがけてダダダっと撃っている。弾がパパッと飛んでいっているのが分かります」

旗生少尉の機体は、宇佐から鹿児島県の串良基地に進出した際、誘導移動中にアメリカ軍から攻撃を受けました。この時のことが日記に書かれていました。

旗生少尉の日記(1945年4月16日)
「昨日は危機一髪でした。着陸して飛行機を掩体壕に誘導中不意に敵襲を受けたのです」

「豊の国宇佐市塾」は、この日記などを元に、機体を特定したといいます。

「豊の国宇佐市塾」織田祐輔さん
「旗生少尉の日記と、当時一緒に移動してきた他の隊員の証言と合わせて、3機目に旗生少尉が乗っているのが分かったという次第です」

死を覚悟して綴った敏子さんへの思い

死を意識したのか。22歳だった旗生良景少尉の日記はアメリカ軍から攻撃を受けた翌日から始まります。

1945年4月16日 旗生少尉の日記
「遺書も何も残していなかったことを思い出し、遺書と言ふような堅いものでもなしに、日記のつもりで出撃の日迄私の生活、気持ちを書いて置きたいと思ひます」(中略)「(敏子は)心から私が愛したたった一人の可愛い女性です。純な人です。私の一部だと思って何時迄も交際して下さい。葬儀には是非呼んで下さい」(中略)「お父さま、お母さま、本当に優しく心から私を可愛がって頂きましたこと有難く御礼申します。この短い文の中に私の全ての気持ちを汲んで下さい。これ以外のことを言ふのは水臭く妙な感じがすると思ひます」

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この記事を書いたひと

岩本大志

1991年生まれ 長崎県出身

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