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年の瀬の催事やイベント、冬の風物詩の歴史を『驚き映像』で紹介。カンニング竹山、大家志津香、田畑竜介(RKBアナウンサー)のコメントとともに、RKB65年分の蔵出し映像を一挙公開します!
今とは大違い! 年の瀬の“お金”事情
ボーナスは現金支給が当たり前だった昭和30年代。北九州の産業をけん引した「八幡製鉄所」のボーナスは桁違い! 重厚なケースに書かれていたのは「4,000万円」の文字。この年のボーナスの総額はなんと18億円でした。
続いて、高度経済成長期を迎えた昭和30年代から40年代、日本は国民総生産GNPが70兆円となり世界2位に(1968年)。多くの家庭に3C(カラーテレビ、クーラー、乗用車)が普及し、家庭用電話も一般的になりました。
年末のドタバタ防犯事情
防犯対策が欠かせない年末。今では考えられないのが銀行強盗訓練です。情熱的なカーチェイスにヘリコプターからの追跡まで、犯人役の警官は迫真の演技! 大がかりな逃走劇の末、線路の上で御用となりました。
年末、いつも以上ににぎやかになる中洲のまち。喧嘩の仲裁やパトロールで大忙しの警察署。見回りを行う歳末パトロール部隊は、気はやさしく力持ちということからいつしか「金太郎部隊」と呼ばれるようになりました。
昨今の年賀状事情をリサーチ!
昭和時代の一大イベントと言えば、お年玉付きの年賀はがきの発売。今では想像がつかないほどの大量購入が当たり前でした。博多郵便局では、全国で初めて年賀状のドライブスルー販売を実施しました。
一方、現在は「年賀状を書かない」という人もいるなか、年賀状で温かい交流を続けている人も。まち行く人の年賀状事情もさまざまでした。
白熱する昭和の年末商戦
昭和50年代の天神地下街では、冬のボーナスをもらったお客を逃すまいと、熱い年末商戦が繰り広げられていました。
一方、海外渡航の自由化が進み、独身貴族のステータスに。欧米などへ個人旅行する若者が急増しました。
夢を託した「年末ジャンボ宝くじ」
1980年代後半からは、空前の好景気・バブル時代に突入。1989年には「24時間戦えますか」が新語・流行語大賞に選ばれました。「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」の開催やスペースワールドの開園もこの頃です。
1989年、岩田屋の旧本館前には外壁を囲むように長い列が。行列の先には「年末ジャンボ宝くじ」!
「年末ジャンボ」と呼ばれるようになったのは、一等賞金が初めて1,000万円の大台に乗った1973年ごろ。臨時販売所となった福岡の平和台球場には、朝の7時に5,000人余りが押し寄せて大混乱。1人10枚までの販売制限も設けられました。
年を追うごとに人気は過熱し、1976年には約5万人が窓口に殺到して発売はいったん中止に! 機動隊が出動するほどの大騒動となりました。再発売されると、球場のまわりをぐるりと囲む1万人が押し寄せました。
RKB65年分の蔵出し映像で振り返る福岡の歴史。
さらに昭和の怪しいクリスマス風景や神業高速餅つきなど、激レア映像はまだまだ続きます!
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