この年の、この月、この日に、主人と客が相対して茶事に臨む。この一生に一度しかない機会を大切にし、互いに心を尽す"一期一会"の精神が、茶道の真髄である。
茶事で供される料理は"茶懐石"と呼ばれ、主人が客をもてなすことに主眼を置いた献立で構成される。本来は少人数のプライベートな集まりに提供される料理であるため一般的になかなか口にする機会はないが、茶事に通じた料理人が営む料理屋が僅かながら存在する。そんな希有な店の一つが、JR黒崎駅近くにある「ふじいち」だ。

昭和の高度成長期に大いに栄えた黒崎駅前商店街にかつてに賑わいはないが、それでも小倉に次ぐ北九州第二の繁華街として多くの飲食店が軒を連ねている。そのやや外れた場所の古めかしい建物にある「ふじいち」の店構えは、茶人が結んだ庵のようにかずらの蔓が絡まる詫びた風情。正午少し前に訪ねると、花籠に挿された名も知らぬ黄色い花の蕾が出迎えくれた。

木戸を開けて立ち入った店内もまるで素っ気がなく、小さな厨房に設えられたカウンターには不揃いの椅子が4脚のみ。まさに茶室を思わせるミニマムな空間でこの日は他に予約が入っておらず、図らずも主人の堀道輝さんとの"一客一亭"にあいなった。
堀さんは縁あって東京の「懐石辻留」料理塾に入り、その後表千家宗匠に師事して茶懐石を学んだ料理人。今も各地で催される茶事の料理方を務めながら、実店舗である「ふじいち」で完全予約制の「茶懐石コース」(12,000円)を提供している。

と、ここまで読んで、さぞかし敷居の高そうな店と思われた方もおられようが、心配ご無用。席に着くなり破顔一笑、「茶懐石というと堅苦しい料理と思われがちですが、決してそんなことはありません」と堀さん。一瞬にして緊張が解きほぐされ、ビールで喉を潤しながら口切りを待つことに。
ほどなく出された向付は、あらく引いた真鯛の湯引きにオカヒジキと花ワサビ。出汁に米酢などを加えた加減酢の淡い味付けが、素材の味を引き立てる。

年代物の漆椀の蓋をとった瞬間、湯気ととともに濃厚な鰹と鮮烈な木の芽の香りが漂う煮物椀の種は、炭火で焼いた合馬の筍と熊本産の蛤。引き立ての一番出汁と貝出汁のシナジーによって、馥郁とした風味がさらに高まるようだ。

毎朝、北九州西港にある中央卸市場で買い付けをするという堀さんが「今日はいいものがありました」という鰆は、大ぶりな切り身に金串を打って塩を振り、シンプルに炭火で焼いたもの。美しい皮目の中身は脂がのり、これは日本酒を飲まずにいられようか!

備前の徳利に入れられた「寒北斗」の純米酒を唐津の猪口でグイッとやれば、はたして魚の脂をスッキリと洗い流してくれる。料理に合わせた酒のチョイス、酒器のセレクトともに申し分なく、亭主の心遣いに感服するばかりだ。

続いて出されたのは、南瓜と蕗の焚き合わせ。「生臭物」(海のもの)と「精進物」(山のもの)がバランスよく供されるのも茶懐石のセオリーのひとつで、緩急の妙が胃の腑をホッと落ちつかせてくれる。

そして、まだ徳利に酒が残っているタイミングで出てくるのが強肴(しいざかな)で、写真はマテ貝に空豆や芹などの青菜を合わせたもの。今回訪れたのは「八十八夜」の翌日で、唱歌の歌詞にある通り「野にも山にも若葉が茂る」時節である。旬の食材を尊ぶ茶懐石では、ちょうど春の名残りと夏の走りが重なる時期でもあり、薫風香る皐月にふさわしい料理を堪能することができた。


飯と汁、お菓子と薄茶をいただく頃には亭主ともすっかり打ち解け合い、しばし四方山話に花を咲かせることに。そもそも茶事の食事である茶懐石の目的はただ料理を楽しむだけでなく、極めてプライベートな場で互いの親交を深めることにある。そんな"一期一会"の得難い体験ができる店は、他にそうない。
ジャンル:日本料理
電話番号:093-883-7774
営業時間:12:00~15:00/18:00~23:00
定休日:不定
席数:カウンター4席
個室:なし
メニュー:懐石コース12,000円(要予約)
URL:https://www.instagram.com/fujiichi_/
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